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 1945年3月10日未明から、東京下町を襲った悪魔の使いの如き怪鳥たちは、一夜にして10万人にのぼる人々の命を、無残にも奪って行きました。
 そのお一人お一人に生活の営みがあり、家族もありました。そして何より非戦闘員でした。
 この悲惨極まる無差別爆撃の実相は、作家の早乙女勝元さんらのご努力で掘り起こされ、語り継がれて来ていました。
 そして、あの日から長い時間が流れて行きました・・・。
 この間、ご体験者の方々の数も年々減少し、戦争体験の風化も語られ、この悲惨な事実は人の口にのぼることも少なくなって来ていました。
 それでも、忘れずに語り継ぐご活動をねばり強く、そしておやさしい言葉で語って来られたのが海老名香葉子さんでした。
 東京大空襲で家族を失い、その戦後を孤児として生きて来た海老名さんの胸には、いつも空襲でお亡くなりになった方々への鎮魂の願いがありました。
 その願いを実現するべく、上野の山に私費を投じて鎮魂の慰霊碑を建立、毎年3月9日に慰霊祭を行っていらっしゃいました。
 85歳を迎えられた海老名さんは、今年の慰霊祭で〝二度と戦争がおきてはならない。まだまだこの活動を続けて行きたい。〟と決意を語って下さいました。
 そして、翌3月10日の新宿ピカデリーにも、東京大空襲に思いを寄せた、平和を誓う声が響きました。
 この記念の日に上映中の「あの日のオルガン」・・・、74年前の東京大空襲を振り返り、平和への願いを語るべく、上映終了後の舞台に、平松監督、私、そして当時疎開保育園の園児だった3人の方々が並びました。
 疎開保育園での生活の時、東京大空襲で全ての家族を奪われ孤児となった〝健ちゃん〟、そしてあの3月10日の業火の下で一夜を過ごし、翌日まるで地獄絵図の様な焼け野原をさ迷い、幸い保母さんと巡り会い、連れられて疎開保育園に参加した佐瀬さんご姉妹・・・。
 映画を観終わった観客は、お一人お一人の語る言葉に驚き、共感し、平和への願いを胸の中に深く刻んで下さいました。
 どんな理屈を語ろうと、戦争は人類最悪の罪悪であり、平和は、そのよって立つお立場を越えて守り続けなければならない人が生きる基本の概念・・・そんな思いもこの日のオルガンは語ってくれたのでした。
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3月10日新宿ピカデリー舞台あいさつ

by cinema-tohoku | 2019-03-20 10:14 | 映画 | Comments(0)
 ていねいに時間をかけて、全国の多くの方々のやさしきお手にも支えられて完成した、映画「あの日のオルガン」の全国上映が、2月22日全国の53スクリーンでそのスタートを切りました。
 何回経験しても、初日の数字とお客様の反応は気がかりなものです。
 しかしながら、私はこの日を、この作品とは別の仕事で徳島で迎えました。
 そして、翌23日上京、この上映のメイン会場となった、新宿ピカデリーでの舞台あいさつの回に、製作委員会メンバー一同が集合となりました。
 新宿ピカデリーで最も大きな580席のシアター1を満席に埋めた舞台に、上映終了後登場いただいたのは、この作品のダブル主役をつとめていただいた戸田さん、大原さん、そして疎開保育園の園長役の田中さんと平松監督でした。
 それぞれの方々が、語る作品への思いや撮影中の裏話に、場内の観客の方々は映画の感動を更に新たなものにもしていただいた様でした。
 このスタートの日22日に、やはり初日を迎えた作品は何と35本もありました。
 幸い、ご覧いただいた方々の反響は素晴らしく、「ぴあ」の初日満足度調査では、僅かな差で一位はのがしましたが堂々の第二位を占め、我々製作委員会一同、今後への期待を抱かせるスタートとなりました。
 劇場上映はスタートを切りましたが、私たちの全国上映はこれだけで終わるものではありません。
 夏からは、映画館が姿を消した町にも村にも、ていねいに時間をかけてこの上映を拡げて行きたいと願っています。
 いよいよ長い旅のスタートです。
 皆様方のご支援を心よりお願い申し上げます。
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新宿ピカデリー
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by cinema-tohoku | 2019-03-05 17:39 | 映画 | Comments(0)
 訪れた九州は、もはや春の風情でした。
 梅の紅色と、菜の花の黄色に彩られた宮崎県を巡って、今日の朝は熊本で迎えました。
 「あの日のオルガン」がたどるべき道がやっと見えて来た思いです。
 各県毎にていねいに作品に込めた私たちの思いを語って、その輪を全国につなぐ旅は、佳境に入って来た様です。
 「エクレール~お菓子放浪記」の折、熊本には何度か訪れていました。
 熊本市に泊って、朝時間のある時には、朝の空気を胸に、熊本城を訪れることも楽しみにしていました。
 加藤清正ゆかりの、国の重要文化財にも指定された、まさに天下の名城です。
 訪れる度に、天を衝くが如き天守閣の姿に、ほれぼれする思いで見入っていたものでした。
 そして、あれから7年・・・。
 久し振りに訪れた熊本城は見るも無残な姿に変っていました。
 2016年に発生した熊本地震は、熊本県と大分県に甚大な被害を与え、この被害は熊本城にも及んでいたのでした。
 美しい曲線を描いていた石垣はそこかしこで崩れ、天守閣は巨大な修理のクレーンに囲まれて、城はかつてのりりしい姿を取り戻す必死の努力を重ねていました。
 それでも街には活気が戻り、その未来に向けて確実な歩みを踏み出していることに、人の限りない生命力も感じながらの、熊本の朝の散歩でした。
 人の生活の営みを取り戻し始めた熊本県に向けて、人の命の尊さを語る「あの日のオルガン」をしっかりとお届けしたい・・・。
 今日も、精一杯の努力を我が胸に誓っての出発です。
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 1月が駆け抜ける様にして去って行った2月4日、時ならぬ暖かさに包まれた東京で「あの日のオルガン」初の一般へのご披露となった、「プレミア上映会」が開かれました。
 会場となった、東京有楽町の丸の内ピカデリーには、開始前から待ちわびた観客の波・・・、600席を満席に埋めた華やかな雰囲気で開会となりました。
 この映画企画が最初に語られてから42年、私たちが再度の映画化に立ち上がってからも5年の時間が流れていました。
 今の時代に〝子どもの命と平和〟を語ろうとした私たちの願いは、いよいよそのスタートラインに立つことになったのでした。
 初のお披露目の舞台には、この映画で若き保母役を見事に演じて下さった、戸田恵梨香さん、大原櫻子さんはじめ5人の女優と平松監督が、そして、この映画で、必死になってその未来に生きた子どもを演じてくれた〝子役〟達も登場、会場は人へのやさしさと、映画への期待に包まれたのでした。
 開映・・・、会場を満席に埋めた観客は、笑いと涙でこの作品に応えて下さいました。
 そして、上映終了後には思ってもいなかったサプライズが・・・。
 主演の戸田恵梨香さんが再度ご登場下さったのでした。
戸田さんが舞台に立つや、会場からは驚きと感動のお声が・・・。
戸田さんは、こんなお話で観客との交流をはじめられたのでした。
 〝戦争ものにはこれまでも出演してこなかったので、はじめは、この出演のお話を聞いた時、お断りしようと思った。それでも・・・。私は神戸で生まれて阪神淡路大震災と6歳の時巡り合った。あの時見た真っ赤に染まる空を思い返した時、この戦争の時代を描く作品で、私でも出来ることがあるのでは・・・。そんな思いで出演を引き受けました・・・。〟
その後交わされた会場との感想のやりとりでは、感極まって泣き出す方も出るなど、心暖まる交流の場となったのでした。
こんなやさしさに包まれながら、この作品は全国への旅に発ったのでした。
人の幸せを願って・・・。
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プレミア上映会



by cinema-tohoku | 2019-02-14 17:44 | 映画 | Comments(0)
 「あの日のオルガン」の全国への発信地蓮田市で、心暖まる集会がありました。
 平和を願った市民の方々が、毎年日米開戦の記念の日に続けて来られた集会も回を重ねて今年は38回目。
 今回は、平和を語る「あの日のオルガン」について、私に話をして欲しい・・・とのご要請でございました。
 私は映画の世界の人間、人様の前で1時間ものお話をすることには、いささかのはばかられる思いがございましたが、この作品の製作決定から多大なご助力をいただき、市民プロデューサーに関っては、3口ものご支援をいただいておりました他ならぬ蓮田市のこと、お断りしかねて望んだこの日でした。
 当日はこれまでの最大という150名にものぼる市民の方々が、会場をいっぱいにうめて下さり、蓮田市副市長様、そして蓮田市教育長様のごあいさつで集会は幕を開けました。
 お二人とも既に試写会でこの作品をご覧になっていらっしゃいまして、この映画を通した平和への、そして蓮田市の全国発信への願いを語って下さいました。
 そして、ご指名されて登壇した私のつたない話も、ご参加の市民の方々は暖かく受けとめて下さいました。
 又、最後にはサプライズが・・・。
 当時の疎開保育園の園児で、3月10日の東京大空襲で全ての家族を奪われ、それ以降の人生を孤児として歩んでこられた田辺健之さん(ケンちゃん)が登場・・・、会場は驚きと共感の思いに一気につつまれました。
 “この映画が実現して、こうして蓮田の方々にお礼が言えることになった・・・本当にありがとうございました・・・。〟
 こんな言葉を語る田辺さんに、ご参加の方々は暖かい満場の拍手で応えて下さいました。
 平和・・・つくずく実感します、この概念は思想や信条を超えた、人が生きるための最低条件なのだと・・・。
 そして平和が語られる場には、こんなにもやさしき心が通い合うのだとも・・・。
 映画上映の成功への思いを更に大きく拡げることとなった蓮田の一日でした。
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会場いっぱいの集会

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田辺健之さん


by cinema-tohoku | 2018-12-12 13:37 | 映画 | Comments(0)
 多くの方々の、やさしいお手に支えられて、映画「あの日のオルガン」が完成し、明年2月からの上映成功に向けて、全国でその準備が始められていました。
 そして、その先頭を切って上映実行委員会の発足に向けた「呼びかけ人会」が開かれたのが埼玉県蓮田市でした。
 1944年、戦火から子どもたちの命を守るため、東京品川区にあった戸越保育所は、保育園の疎開を決断しました。
 しかしながら、その前には乗り越えなければならない課題が山積していました。
 そして、その大きな一つが、場所の設定の課題でした。
 下は3才からの53名の幼児を生活させる場所・・・そして欠くことの出来ない食糧確保の課題も大きな問題でした。
 当時、この保育所を経営していた、恩賜財団大日本母子愛育会は、最大の努力でこの課題に向かい合いました。
 そして、その願いに手を重ねて下さったのが、埼玉県平野村(現蓮田市)の心やさしき方々でした。
 平野村高虫にあった無住の荒れ寺 妙楽寺が、疎開先を引き受けて下さり、食糧問題は、有難いことに、平野村の方々が食糧支援体制をつくってこれを支えることで疎開先は決定したのでした。
 それ以降平野村の方々は、子どもたちの命を守る心やさしきご支援の手で、疎開保育園を支えて下さったのでした。
 この平野村のやさしきお手がなければ、この53の幼い命は、地上から消えてしまっていたのかも知れなかったのでした。
 まさに平野村は、53人の子どもの命を救った村だったのでした。
 そしてあれから73年・・・この平野村の心やさしき歴史は、一本の映画となってこの地に生を授かったのです。
 この映画の製作支援に、先ずもって立ち上がって下さったのは蓮田市民の有志の方々でした。
 この市民の方々の熱い思いは、短い時間の中に市内に共感の輪として拡がって行きました。
 そして、この願いに熱く賛同して下さったのが蓮田市長さんでした。
 映画をご覧になって大感激・・・ 子どもたちの健やかな成長に赤信号の灯った現代社会に、「子どもの命」を感動と共に語るこの作品は、蓮田市民の誇りでもある・・・そんな市長さんの思いは、これも市内多くの方々の共感ともなり、11月8日蓮田市上映成功をめざす上映実行委員会の「呼びかけ人会」が、開催されたのでした。
 当日は、市内の主だった団体の方々がご参加され、「子どもの命を救った町蓮田」の誇りを市民の心に語る運動、そしてそんな蓮田の誇りの全国発信へのスタートは、この日切られたのでした。
 この共感の輪を、10,000名の市民の心につなぐ夢を語りながら・・・。
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蓮田市呼びかけ人会議






by cinema-tohoku | 2018-11-19 15:30 | 映画 | Comments(0)
 一本の映画が完成すると、一般的にはいくつかの試写会を経て公開に至るものです。
 この試写会は、通常は「マスコミ試写会」と呼ばれ、芸能マスコミ、報道関係者や映画評論家等に向けて都内の試写室を使って数回から10数回行います。
 これとは別に、監督や俳優の舞台挨拶を交えた「完成披露試写会」を開く作品もあります。
 6月に完成した「あの日のオルガン」の試写会は、これら通常のものとは異なった仕組みで今展開中です。
 先ず最初に一般の方々にご覧いただいたのは8月5日の大阪市、保育関係団体の夏の研究集会での試写会でした。
 この試写会には、会場を満席に埋めた700名の方々(そのほとんどは保育士さんだったと思います)に、この作品を全国で初めてご覧いただくこととなりました。
 場内が暗転して上映がはじまるや、会場からは笑いが…笑いが…、ドラマ中盤に差しかかるや、一転して場内にはすすり泣きの声が…そして、上映終了後、観客の方々は満場の拍手でこの作品を受け止めて下さいました。
 その後試写会は、感動のお声を綴りながら、8月26日、9月1日の保育関係者の集会での試写会に引きつがれて行きました。
 又、通常行われる「マスコミ試写」に先立って、松竹試写室を使った「特別内覧試写会」は、昨日までに2回行われました。
この試写会は、映画製作を支えた「市民プロデューサー」の方々や、ご後援団体の方々、又これからの上映を支えて下さる方々をお招きしてのものでした。
 上映終了後は、目を真っ赤にしながら、交々に感動のお声を語るご参加者の言葉に、早々と映画上映の大成功も予感させる試写会となりました。
 そして、ここまでの試写会ご参加者は、何と1,500名にのぼったのでした。
 更に、「あの日のオルガン」試写会は、10月からの9回予定の「マスコミ試写会」、そして、その後に予定される出演者勢ぞろいの「完成披露試写会」に引きつがれ、明年2月の公開を目指して行くことになります。
 観ていただくことで、この作品は拡がっていく・・・こんな私達の確信は、異例な試写会の運びとなり、そしてそこから語られた感動のお声は、一歩一歩確実にこの作品を育て始めて来ているのかも知れません。
 “子どもの命と平和〟を願うお声を、ご覧いただいた方々の胸に刻みながら・・・。
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「あの日のオルガン」



by cinema-tohoku | 2018-09-12 10:43 | 映画 | Comments(0)
「あの日のオルガン」市民プロデューサーのお一人で、東京恵比寿で精神科医師として、心を病んだ方々と向かい合っていらっしゃるYさんのフェイスブックに映画原作本のご感想がアップされました。
ご本人のご許可をいただいて掲載させていただきます。
皆様も是非お読みになって下さい。

夏休みの極私的課題図書、『あの日のオルガン~疎開保育園物語』(久保つぎこ著、朝日新聞出版)。映画化に際し36年ぶりの復刊であります。ちびちび読んで終戦記念日にようやく読み終わりました。

敗戦の前の年、1944年4月に幼稚園閉鎖令が施行され、同年8月からは小学3年生から6年生までの集団疎開が始まるのだが、保育園はといえば、「戦時託児所」と名前を変え、その数を増やした。就学前の幼児の「疎開保育所」が地方に開設されたのは、終戦のわずか2ヶ月前、東京大空襲の後のことだった。

そんな時節にあって、44年11月に幼児疎開を単独で決行した民間の保育所があった。戸越保育所(現・品川区)と愛育隣保館(現・墨田区)である。このふたつの園から幼児53名と職員11名(うち保母8名)が、旧国鉄桶川駅から6km離れた高虫の荒れ寺に疎開したのである。

幼くして親元を離れた幼児は3歳から5歳、親に代わって子どもたちの保育にあたる保母は19歳から27歳。日々の激務と負わされた責任の重さからか、終戦までの約9ヶ月間、保母たちは全員が無月経であったという。

童話作家であり新劇の女優であり3人の子を持つ母親であった久保つぎこは、丁寧な取材と調査を重ね、3年の歳月をかけてこの本を書き上げた。登場する人物、とくに若い保育士たちが活き活きと描かれているのは、著者の経歴と経験によるところが大きい。インタビューの言葉ひとつひとつにリアリティがある。

内容が内容だけに反戦・非戦の想いがこめられているのは言うまでもないが、読み進むうちに、子どもを育てること、子どもが育つこと、人が生きることの根本を問われている気がしてくる。

疎開保育園の子どもたちは、終戦の日まで全員が無事であった。しかし、その中には45年の3月と5月の空襲で、親きょうだいをすべて失った子どももいた。そして、疎開せず東京の親元で暮らしていた幼児たちの、いったい何人が戦火に焼かれたことか。

1982年に出版された本書の原題は「君たちは忘れない」だったそうである。忘れないだろう、忘れてほしくない。私たちも決して忘れない。世界に平和を。Love & Peace.
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「あの日のオルガン」

by cinema-tohoku | 2018-08-24 10:27 | 映画 | Comments(0)
 人生、年を積み重ねて、その数何と70年を数えることになりました。
 この私が70歳…信じ難い思いで迎えたその日を、遠く離れた息子と娘は電話で、そして仙台に生活する娘家族は我が家を訪れて、心優しく古希の日を祝ってくれました。
 私たち世代は、戦後ベビーブームの世代、まさに団塊の中核とも呼ばれた世代でした。
 振り返るなら、子ども時代は今の基準で語るなら、まさに国民は全てが貧しい生活を送っていました。
 その日々の生活の中に〝ぜいたく〟は皆無・・・それでも地域社会と家族の絆はしっかりと私たちを支え、今日よりきっと素晴らしい明日が来る・・・貧しくとも希望で胸をいっぱいにふくらませながら送っていた少年時代でありました。
 そして、中学から高校に差しかかる頃は、まさに激烈な競争社会を経験し、東京の大学に進学、寮での生活を通して、稚拙ながらも初めて社会と向かい合うことになりました。
 時はまさに「70年安保」の時、時代から〝君たちはどう生きるか〟・・・と問われながら過ごした4年間…、そして卒業後の進路を、親の反対を押し切って映画の道に進めたのは、愚直なまでに誠実に生きようとした東北人の魂の故だったのかも知れません。
 それ以降、東京の共同映画からの独立と、シネマとうほくのスタートもありながら、映画の製作と上映を通した、人の世の幸せを願って歩み続けてきたのでした。
 こんな私たちに大きな危機が訪れたのは、7年前の東日本大震災の時でした。
 あの日の直前に完成していた「エクレール~お菓子放浪記」は、宮城での上映の道を断たれ、もはや会社を支えることは不可能とも思われながら、耐えに耐えながらここまで歩んで来られた要因は、あの時全国のたくさんの方々から頂戴した“人の情け”であり、ともするとくずれそうになる私を支えた家族の暖かい手でもありました。
 そして、70歳を迎えて、「君の笑顔に会いたくて」が全国展開をし、「あの日のオルガン」が完成を迎えました。
 まだ、前線で、しばらくは・・・そんなお声に支えられながら、古希から先に、まだ私の道は続いている様です。
 支えて下さった、たくさんの方々の願いに応えるためにも…。
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あの日のオルガン



 「あの日のオルガン」の原作本が、7月20日朝日新聞出版から再刊されました。
 このご本も、たくさんのドラマを紡ぎながらここまでたどり着いたのです。
 時は36年前、この史実の映画化の企画が持ち上がった時にさかのぼります。
 「疎開保育園」の歴史は、それまで色々な学習会等で断片的な報告はありましたが、まとまった記録がございませんでした。
 歴史の事実であるならば、しっかりとその史実をたどって一冊の本としてまとめ上げてから、映画化の企画を進めた方が良いだろう…とのことになり、そのご本の仕事を託されたのが、原作者となった久保つぎこさんでした。
 久保さんは、このご本が、ご本人がお書きになる2冊目のご本だったこともあり、託された仕事の大きさにいささかのたじろぎはありながらも、真正面からこのお仕事に向かって下さいました。
 そして、それから旺盛な取材活動を始められたのでした。
 当時はまだ、疎開保育園の保母さんたちが皆お元気で、久保さんはこの方々にも可愛がられながら、取材の毎日はその日を数えて行ったのでした。
 そして、無事出版の日を迎えたのは、それから何と3年後のことでした。
 この日は、まさに久保さんの執念が実った日でもありました。
 しかし…残念ながら、当時この映画化企画が実現することはありませんでした。
 それから、長い長い時間が経っていました。
 私が再度映画化の企画を思い立って、久保さんのご自宅をお訪ねしたのは2014年3月の事でした。
 久保さんは、そのお年を感じさせない、情熱いっぱいの風情で私の前に立って下さり、映画化の再企画を満面の笑顔で喜んで下さいました。
 そして、それからも数々の山と谷を経験しながら、それでもこの企画の完成を願う多くの方々に支えられて、この作品は先月無事に誕生の日を迎えたのでした。
 初号試写が終わった後、久保さんが私に見せて下さった笑顔にホッと胸をなでおろしたものでした。
 そして、久保さんの絶版となっていた原作は、幸い朝日新聞出版の方々のお目にとまり、7月20日新たな装いで再度、出版となったのでした。
 子どもたちの健やかな、そして平和な未来を願う、久保さんの熱い願いが結晶して…。
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原作「あの日のオルガン」


by cinema-tohoku | 2018-07-20 17:20 | 映画 | Comments(0)