625日、東京五反田のイマジカ第1試写室で、映画「あの日のオルガン」初号試写会が開かれ、私の胸に36年にわたってあたため続けて来た企画は、無事この世に生を授かりました。
 初号試写は本来、スタッフの最終チェックの試写ですが、この日はこの映画の製作に欠くことの出来なかった「市民プロデューサー」はじめ関りの深い方々もお招きして、にぎやかな誕生の日となりました。
 振り返って見れば、ここまでの道の長かったこと・・・。
 36年前、私が以前勤務していた共同映画で、この企画は生まれました。
 久保さんにお願いして3年かけて原作本も出版され、いよいよ、と思われましたが、残念なことに諸般の事情で実現には至りませんでした。
 私は当時、子どもたちを保育所に通わせていた父親でありました。
 子どもの命と向かい合ったこの製作企画には、大きな感動を覚え、製作断念の決定をとても残念な思いで受け止めました。
 それ以降、この企画は私の胸の中にその位置を占めることになりました。
 〝いつの日にか…〟そんな願いとなって。
 そんな長い夢を実現へと駆り立てたのは、今の社会の現状でした。
 子どもたちの健やかな成長に赤信号が灯り、子どもの命がこんなにも軽くあしらわれた時代は戦後なかったのではないかと思っていました。
 そんな現代社会に、あの戦火の時代に、それでも子どもの命を守り抜いた若き保母たちの史実は、大きな感動と共にかけがえのないものを語ると思ったのでした。
 こんな思いが、企画の実現へと私の背を押したのでした。
 そして、この日の誕生を支えて下さったのが、「市民プロデューサー」の方々でした。
 今、この企画が語るべきものにご賛同いただき、
100万円のご出資で映画製作を支えて下さった心優しき方々は、この日までに70人を数えるに至りました。
 試写室のシートに座って、スクリーンと向かい合った時、市民プロデューサーのお願いに全国を回った折に、お会いした方々のお顔が頭をよぎり、思わず胸が熱くなるのを覚えたのでした。
 そしてスクリーンに映し出された映画…。
 ドラマが進むにつれ、流れる涙はスクリーンを曇らせ、エンドが打たれた時、深い安堵の思いで、私の胸はいっぱいになっていました。
 〝子どもたちの命と平和〟かけがえのないものを、今生まれたこの作品は見事に語った様です。


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by cinema-tohoku | 2018-07-09 16:17 | 映画 | Comments(0)
 映画「あの日のオルガン」に描かれる、日本で初めて保育所を疎開させて53名の子どもたちの命を守ったのは、戸越保育所でした。
 東京品川区にあったこの保育所は、まさにドラマティックな成り立ちで生まれた保育所でした。
 ここには若い二人の男女が登場します。
 一人は東大経済学部の学生だった大村英之助さん、そしてもうお一人は都バスの車掌だった鈴子さんです。
 このお二人は当時の社会運動に目覚め、その中で巡り会い、そして結婚をしました。
 二人がこれから歩む道を探っていた時、子どもが授かり、この育児を通して、いつの間にか二人は、子どもたちの命を育む保育所をつくって見たい…そんな夢を描く様になりました。
 しかしながら貧しかった二人にはとても手の届かない夢かと思われましたが、英之助さんのお父様のご援助で、この夢は急速に実現に向かって行ったのでした。
 英之助さんのお父様は、当時の満鉄総裁をおつとめになられていました。
 我が息子は社会運動に目覚めた、いわゆる〝グレた息子〟でしたが、鈴子さんの夢には賛同して応援の手を差しのべてくれたのでした。
 そして、1939年、若い二人の夢を語る戸越保育所は開園したのでした。
 こんな足跡をたどって生まれた戸越保育所は、とても自由な風が吹く保育所でした。
 保育所の主任保母となった畑谷光代さんがこんなことを語っています〝とにかく自由な保育所だった…。新任の保母がベテラン保母の前でも臆することなく意見が言える…。保育をすることが楽しくて楽しくて…。〟
 しかしほどなく、この自由な保育所に暗い影が差して来ることになります。
 戦争が困難になるにつれ、この保育所に向けた当局の目は日増しに厳しいものとなって行きました。
 若い二人は深刻な議論を交わしました。〝このままでは保育所の存続が危ぶまれる…。〟
 そして二人は保育所を残すため、この保育所の経営を他の団体に譲り渡すことを決意したのでした。
 若い二人からこの保育所の経営を引き受けたのは、恩賜財団母子愛育会でした。
 この財団は、現天皇陛下のご誕生を記念して昭和8年創立された財団でした。
 当時の国民生活は極めて困難な状況に追い込まれて、子どもと母親の保健はほとんど顧みられない状況にありました。
 こんな時代に、母子の健全なる成長を願って活動してきた財団でした。
 そして迎えた1944年、財団と戸越保育所の保母たちは、疎開保育を決意したのでした。
 戦火から子どもたちの命を守る決意を込めて…。

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by cinema-tohoku | 2018-07-02 15:25 | 映画 | Comments(0)

東京大空襲の大惨禍から70年目の3月が巡ってきました。

1945年、敗戦間近の3月9日未明から10日にかけて東京を襲った325機のB29は、たちまちのうちに東京を火の海に変え、一度にして10万人の民間人の命を奪ったのでした。それはまさに地獄絵図とも言える悲惨な光景となり、東京下町は一夜にして焦土と化したのでした。

そんな惨禍を二度と繰り返させない…。そして不幸にも生命を奪われた数多くの方々の慰霊を願って心ある民間の方々が「東京大空襲」を語りついできましたが、そのお一人に海老名香葉子さんがおいででした。

海老名さんは沼津の疎開地で赤く燃える東京の空をみつめ不安な一夜を過ごしました。
そして彼女にはあまりに過酷な現実が突きつけられたのでした。東京大空襲は不幸にも海老名さんの家族の絆を奪い、一夜にして彼女は戦災孤児となってしまったのでした。

その後、幸いにして彼女は人の情に支えられ、初代林家三平師匠とご結婚され一門を支える女将さんとしてご活躍をしてきました。それでも心の中には「東京大空襲」で生命を奪われた数多くの方々への慰霊の思が途絶えるとはありませんでした。

そして2005年意を決してまさに私費を投じて東京上野に東京大空襲の慰霊碑「哀しみの東京大空襲」「時忘れじの塔」を建立、毎年3月9日に慰霊の集いを行ってきたのでした。
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私は、東京大空襲をテーマに撮った海老名さん原作のアニメ「明日元気になーれ」の全国配給を担当したことがきっかけで海老名さんとお会いして、キャンペーンでご一緒に全国を回り、その中で彼女の平和への熱い願いに胸を熱くしていました。
それ以降私も毎年3月9日の慰霊の集いに参加して参りました。集いには毎年大勢の方々がご参加され、いつまでも続く平和を願って手を合わせていました。

そして本年3月9日、巡り来る70年目の集いは上野の山で開催されます。
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