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 一本の映画が完成すると、一般的にはいくつかの試写会を経て公開に至るものです。
 この試写会は、通常は「マスコミ試写会」と呼ばれ、芸能マスコミ、報道関係者や映画評論家等に向けて都内の試写室を使って数回から10数回行います。
 これとは別に、監督や俳優の舞台挨拶を交えた「完成披露試写会」を開く作品もあります。
 6月に完成した「あの日のオルガン」の試写会は、これら通常のものとは異なった仕組みで今展開中です。
 先ず最初に一般の方々にご覧いただいたのは8月5日の大阪市、保育関係団体の夏の研究集会での試写会でした。
 この試写会には、会場を満席に埋めた700名の方々(そのほとんどは保育士さんだったと思います)に、この作品を全国で初めてご覧いただくこととなりました。
 場内が暗転して上映がはじまるや、会場からは笑いが…笑いが…、ドラマ中盤に差しかかるや、一転して場内にはすすり泣きの声が…そして、上映終了後、観客の方々は満場の拍手でこの作品を受け止めて下さいました。
 その後試写会は、感動のお声を綴りながら、8月26日、9月1日の保育関係者の集会での試写会に引きつがれて行きました。
 又、通常行われる「マスコミ試写」に先立って、松竹試写室を使った「特別内覧試写会」は、昨日までに2回行われました。
この試写会は、映画製作を支えた「市民プロデューサー」の方々や、ご後援団体の方々、又これからの上映を支えて下さる方々をお招きしてのものでした。
 上映終了後は、目を真っ赤にしながら、交々に感動のお声を語るご参加者の言葉に、早々と映画上映の大成功も予感させる試写会となりました。
 そして、ここまでの試写会ご参加者は、何と1,500名にのぼったのでした。
 更に、「あの日のオルガン」試写会は、10月からの9回予定の「マスコミ試写会」、そして、その後に予定される出演者勢ぞろいの「完成披露試写会」に引きつがれ、明年2月の公開を目指して行くことになります。
 観ていただくことで、この作品は拡がっていく・・・こんな私達の確信は、異例な試写会の運びとなり、そしてそこから語られた感動のお声は、一歩一歩確実にこの作品を育て始めて来ているのかも知れません。
 “子どもの命と平和〟を願うお声を、ご覧いただいた方々の胸に刻みながら・・・。
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「あの日のオルガン」



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by cinema-tohoku | 2018-09-12 10:43 | 映画 | Comments(0)
 人生、年を積み重ねて、その数何と70年を数えることになりました。
 この私が70歳…信じ難い思いで迎えたその日を、遠く離れた息子と娘は電話で、そして仙台に生活する娘家族は我が家を訪れて、心優しく古希の日を祝ってくれました。
 私たち世代は、戦後ベビーブームの世代、まさに団塊の中核とも呼ばれた世代でした。
 振り返るなら、子ども時代は今の基準で語るなら、まさに国民は全てが貧しい生活を送っていました。
 その日々の生活の中に〝ぜいたく〟は皆無・・・それでも地域社会と家族の絆はしっかりと私たちを支え、今日よりきっと素晴らしい明日が来る・・・貧しくとも希望で胸をいっぱいにふくらませながら送っていた少年時代でありました。
 そして、中学から高校に差しかかる頃は、まさに激烈な競争社会を経験し、東京の大学に進学、寮での生活を通して、稚拙ながらも初めて社会と向かい合うことになりました。
 時はまさに「70年安保」の時、時代から〝君たちはどう生きるか〟・・・と問われながら過ごした4年間…、そして卒業後の進路を、親の反対を押し切って映画の道に進めたのは、愚直なまでに誠実に生きようとした東北人の魂の故だったのかも知れません。
 それ以降、東京の共同映画からの独立と、シネマとうほくのスタートもありながら、映画の製作と上映を通した、人の世の幸せを願って歩み続けてきたのでした。
 こんな私たちに大きな危機が訪れたのは、7年前の東日本大震災の時でした。
 あの日の直前に完成していた「エクレール~お菓子放浪記」は、宮城での上映の道を断たれ、もはや会社を支えることは不可能とも思われながら、耐えに耐えながらここまで歩んで来られた要因は、あの時全国のたくさんの方々から頂戴した“人の情け”であり、ともするとくずれそうになる私を支えた家族の暖かい手でもありました。
 そして、70歳を迎えて、「君の笑顔に会いたくて」が全国展開をし、「あの日のオルガン」が完成を迎えました。
 まだ、前線で、しばらくは・・・そんなお声に支えられながら、古希から先に、まだ私の道は続いている様です。
 支えて下さった、たくさんの方々の願いに応えるためにも…。
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あの日のオルガン



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 立春も過ぎて暦の上では春を迎えたと言うのに、日本列島には寒気団が居すわり、いつになく寒さの厳しい毎日が続いています。

 そんな折、更なる寒さを求めるように北海道を訪れていました。
 「君の笑顔に会いたくて」の全国上映の動きが始まっていましたが、この動きは北海道にも拡がり、すでに道内何ヶ所かでの上映準備がスタートし、この対応での北海道訪問でした。

 昨日は札幌から帯広、そして今日は釧路・・・とにかく寒い!
 美川憲一の「釧路の夜」に歌われる幣舞橋のかかる釧路川は、川面がすっかり凍結し、一面に氷の蓮の葉が拡がり、街の中はすっかり凍りついて道はさながらスケート場状態・・・。
 北の街は氷の街となっていました。
 それでも、開かれた試写会とその後の上映実行委員会には多くの方々が足を運んで下さり、映画の感動に頬を染めながら、ご参加者全員の思いで釧路での上映運動は、その成功に向けてスタートを切ることになったのでした。
 スローシネマ方式・・・つくずく手間のかかる上映運動だと思いますが、直接お訪ねし、作品に寄せる思いを語り、上映成功に向けた共感の輪をつなぐことが、上映成功への唯一の道であることを改めて実感して、札幌に向かう夜汽車に寒さにふるえる我が身をゆだねたのでした。
 明日は、訪れる石狩市での上映を必ずや拓こうと心に熱く願いながら・・・。

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凍結の釧路川


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出雲大社も上映成功を祝ってくれている様でした


 長い長い時間をかけながら、一歩一歩ていねいに歩みを進めて来ました「じんじん」出雲市上映がやっと本番上映の当日を迎えました。

 改めて振り返って見るなら、事の発端は米子市で「じんじん」をご覧になって大感激したMさんが、恐る恐るご連絡をとって来て下さった一昨年前にさかのぼります。

 “とても素晴らしい映画…。出来れば出雲市での上映を実現して、一人でも多くの方々にお伝えしたいのだが、映画上映の経験もなければ、何の組織の裏付けもない…、こんな私でも上映が出来ましょうか。”と。

 その願いにお応えするべく、初めて出雲市をお訪ねしたのは一昨年の11月のことでした。

 それから数えるなら何と15ヶ月にのぼる、まさに「スローシネマ上映運動」の道のりでした。

 Mさんの心を込めたお呼びかけに賛同し「観る会」のメンバーに加わって下さった方は14人、絵本の読み聞かせ活動をやっている主婦、元教師、出雲で演劇活動をやっている方…。

 そんなお一人お一人のご賛同をていねいにつむぎながらこの日の本番の上映を迎えるまでには、これ位の長い時間にわたる運動の醸成期間が必要だったのかも知れません。

 朝方の雨もあがり上映が始まる頃には青空も…、緊張で前日は充分に眠れなかったと語るMさんと14人の仲間たちの心を込めた「じんじん」上映会には、600名にのぼる市民の方々が足を運んで来て下さいました。

 ドラマが終盤に差し掛かるや会場にはすすり泣きの声も聞かれ、上映終了後にはお金を払った「お客様」が主催者に深々とお礼をする…そんな素晴らしい上映会となりました。

 経験も組織もない、それでもたった一つ“多くの人に伝えたい!”そんな一人の女性の思いが600人の共感となって拡がった…これは見事な「スローシネマ」の典型の上映でありました。

 上映終了後、会場そばの中華料理店でささやかな、それでも心のこもった懇親会となりました。

 懇親会では、楽しかった、このままお別れするのが悲しい... 映画はお金を払って観るものだと思っていた。自分たちが上映会など出来ないと思っていたが、こんなすごいことをやれたんだ...。 等、感動に頬を染めたメンバーの声は、いつまでも出雲の冬空に響いていました。

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若い方々も目立った出雲市上映

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楽しかつた懇親会




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by cinema-tohoku | 2016-02-25 13:47 | 映画 | Comments(0)

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初冬の出雲市駅


 以前のブログでも書きました。

 島根県出雲市で「じんじん」上映を望むお声が上がり、それではまずは何人かで映画を観て、その上で皆のご意見が是非上映をしたい、とのことになるのなら...そんな願いを込めて「先ずもっての試写会」を開いたのは本年729日のことでした。

 幸い、ご覧の皆様方からは、とても熱い感動が語られ、全員一致で上映を決意、ここに集った20人の願いを更に多くの市民と共有するため「大きな試写会」実施に向けて一歩一歩準備を重ね、昨日は(129日)その試写会の当日でした。

 是非来て欲しい...とのご要請を受けて又遠出雲路をたどって参りました。

 幸い、12月にしては穏やかな陽気に恵まれた出雲、上映会場となった郊外の会場には多くの市民の方々が足を運んで下さいました。

 そして開かれた試写会は150人にのぼる方々のご参加で大成功をおさめ、上映運動は明年2月の本上映成功に向けてスタートを切ったのでした。

 それにしてもこの上映、まさに私たちの掲げた「スローシネマ」の典型。

 最初に上映のお声をあげた方は大きな組織の裏付けもない「じんじん」に感動したまさに一市民。

 そして、彼女のお呼びかけで集まった方々も、格段の運動のご経験もない、これもまさに一市民。

 そんな方々が一歩一歩、まさに道を探るようにして積み重ねて来た、ここまでの道筋でした。

 試写会上映中、車座になって実行委員の皆様と話し合いをしました。

 ここまでの丁寧な論議と道筋にやっと自信の片鱗をのぞかせながら、交々に確かな手応えを語る皆様の言葉に、2月の本上映の大成功を確信した私でありました。

 あせらず、ゆっくりと、そして丁寧に...納得のいく階段を一歩一歩登った先に実現する素晴らしい上映会...。

 「スローシネマ」はいよいよその力を全国に大きく拡げ始めたのかも知れません。

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沢山の市民が集まった試写会


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遠くに望む大山




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間もなくこの世に生まれてくる「じんじん」公開に向けた私たちの論議はその回を重ねてゆきました。

通常の劇場のみでの公開によるならば、結果的には映画館のない地方を切り捨てることになってしまう…。そして、私たちが心を込めて贈ろうとするこの作品はシネコンにかけてそのことだけで多くの観客に観ていただくことにはならないタイプの作品だろう…。

幾度かの議論の上で私たちは新たな日本映画の未来も願ってこんなしくみでこの作品をお届けしようと決意したのでした。

この作品が語るべきテーマ「地域社会と家族の再生」を前面にたて、丁寧に時間もかけて足も運び、この作品の心を語ってゆくならきっと全国の多くの方々がご賛同の手をつないでいただけることを信じて、私たちはこの作品の公開をご賛同の住民の方々と手をつないだ映画館によらない地域運動として歩みだすことを決意し、あえて「スローシネマ」と名を冠し、201211月北海道剣淵町からそのスタートを切ったのでした。


あの日から3年を数えることとなりました。

私たちが願った「じんじん」公開の夢は確実に人の手から手へと受け継がれ、人から人へとへと語られ、大きな大きな上映の輪となって育っていったのでした…。






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by cinema-tohoku | 2015-03-06 11:05 | 映画 | Comments(0)

そんな暗い低迷の時代を大きく変えるきっかけとなったのが「シネコン」の登場でした。

1993年、神奈川県海老名市に第一号がオープンした「シネコン」は、たちまちのうちに全国に大きく拡がってゆきました。減少を続けていた映画人口が一転して増加に転じました。そして、スクリーン数もその数を増やして行きました。

こう語りますと日本映画はまるで万々歳のようですが、残念なことに光があれば影もあったのでした。

「シネコン」は効率性と収益が第一義的に求められる装置なのかも知れません。その立地にあたっては人口集中の大都市圏が選ばれてゆきました。又、シネコンの進出によってそれまであった地方の既存の映画館は、その競争に勝てずに閉館を余儀なくされてゆきました。その結果、映画館は大都市圏のみに偏在するものとなってしまったのでした。今や、日本の約9割の市町村は映画館がゼロ地帯と化し、映画の世界では都市と地方との格差は決定的なものとなってその分日本映画界の大きなひずみとして横たわることとなったのでした。

又、シネコンの登場によって作品の質にも大きな変化が生まれてゆきました。効率と収益を求めるシネコンにとっては、都市から地方へと順次公開を拡げてゆくかつての映画の公開のしくみはとうてい採用されないものとなったのでした。

「全国一斉公開」…この新たなしくみによって、巨大な宣伝費を投下したひと握りの作品が多くのスクリーンを独占することとなり、数億、数十億の宣伝費を準備できない作品はたちまちのうちに打ち捨てられてしまう道をたどることになってしまったのでした。

本来映画は利生むべき「商品」であると同時に「文化」としての側面も持ち合わせたものなのだと思います。人の心を育み、地域社会を元気にさせる…、そんな映画の持っている「文化」としての側面に目をやった時、それは多様なものであるべきだし、丁寧に時間もかけながら観客と一緒になって育てるものでもあると思うのですが、「シネコン」の登場は、その後の日本映画界にこんなひずみも生むことになってしまった様でした。


・・・「スローシネマ③へ続く」

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by cinema-tohoku | 2015-02-27 09:58 | 映画 | Comments(0)

私たちが「じんじん」の製作を決意した時、私たちの前に解決しなければならない大きな課題がありました。

まもなく完成するこの作品を、どんな方法で多くの方々にお伝えするのか…、公開の仕組みを巡る課題でした。

戦後、日本映画は大きな変転の道をたどって来ました。1945年、日本は敗戦を迎えました。平和な、そして新たな民主主義の時代を迎えた国民はこぞって娯楽を求め始めました。そして、当時の国民の心を一番掴んだのは映画でした。映画は「大衆娯楽の王」とも語られ、映画館にはたくさんの観客が詰めかけました。そして小さな町にも村にもさえも映画館は次から次へと開館していったのでした。

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写真はイメージ 「エクレール・お菓子放浪記」にも登場した、石巻市の岡田劇場


私は当時小学生でしたが、たくさんの映画を観て自らの心を育ててゆきました。又、あの時代を振り返ってみると、不思議なことに、観た映画の記憶と共に誰と一緒に観たのかも思い出されるのです。あの当時の映画は産業としての隆盛を誇っていただけではなく、「地域コミュニティ」を語る上でも欠く事の出来ない要因ともなっていたのだと思われるのです。

しかしながらこんな映画の幸せな時代もいつまでも続くことはありませんでした。

その後登場したテレビの普及と娯楽の多様化の波は、映画界を長く暗い低迷の時代へと突き落としたのでした。年間を通した映画人口は全盛期の一割に減じ、映画館の閉館も相次ぎました。


・・・「スローシネマ②へ続く」


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by cinema-tohoku | 2015-02-24 10:44 | 映画 | Comments(0)