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 1970年に公開されて、世界的大ヒット作品となった映画「ひまわり」をご記憶の方は多いと思います。
 今この作品が、<ウクライナ支援>の役割をになって、全国に急速に上映の輪が拡がり始めているのです。
 戦争で引き裂かれる愛し合っていた男女を、ヘンリー・マンシーニの切ない曲が彩ったこの作品は当時大ヒットとなり、それ以降も何度も劇場公開され、その度に映画ファンの心をつかんできました。
 「ひまわり」が、<ウクライナ支援>の役割をになって登場したことには、当然ながらこの作品が描く、戦争の残酷さのテーマがありましたが、その最大の要因は、ラストシーンの一面に拡がるひまわり畑のロケ地がウクライナだったことでした。
 ウクライナの首都キエフの南500キロのへルソン州に拡がるひまわり畑は、その美しさ故に、愛し合っていた二人をひきさく戦争の理不尽さを際立たせてくれたのでした。
 2月24日、突然国境を破ってウクライナへの侵略を開始したロシア軍は、多くのウクライナ人の、そしてロシア人の命も奪って行きました。
 日々、報道から流されるこの悲惨な映像は、不当なロシアへの糾弾と、ウクライナへの支援の声を、急速に世界に拡げることになりました。
 そして、そんな報道の一つに、あるウクライナ人女性のロシア兵への??責の声がありました。
 〝戦死しても花が咲くように、ポケットにひまわりの種を入れなさい・・・〟との言葉が・・・。
 ひまわりがウクライナの国花だったこともあって、ひまわりは抵抗のシンボルとして語られることになったのでした。
 そしてそんな流れから、映画「ひまわり」は、注目されることになりました。
 この動きは、口から口へと伝えられ、多くの映画関係者の知るところとなって、映画「ひまわり」は、ウクライナ支援を訴える映画として、大きな役割をになおうとしているのです。
 ウクライナに・・・そして、地上に「平和」を・・・。
      映画「ひまわり」、そしてウクライナ・・・_a0335202_10152417.jpg


# by cinema-tohoku | 2022-03-24 10:13 | 映画 | Comments(0)
 東日本大震災の大惨禍から、数えて11年の時間が流れていました。
 ことしの<3・11>は、厳しかった寒さもやっとゆるみ、春の訪れを思わせる様なおだやかな風が吹き抜ける仙台で迎えました。
 私にとって、この日は何度繰り返しても、その記憶が薄れることはありませんでした。
 東京で巡り合ったあの瞬間のこと・・・騒然とした都内を歩いて、友人の会社の事務所に向かった時の情景・・・一晩中まんじりともしないで、刻々の被害を伝えるテレビの画面に見入っていた私・・・明けた朝の空の青さ・・・そして、2週間後やっと東北に戻った私を迎えた石巻の惨状・・・。
 11年の時間が流れても、あの日の情景はその細部にまでも、ありありと私の記憶に刻まれているのです。
 まるであの日のあの時間に立ち戻った様に・・・。
 それでも、その後の社会のあまりのめまぐるしさは、人の記憶からあの日のことを日々遠いものにしています。
 でも、せめてもこの日だけは、被災地に思いを寄せて欲しいと切に願うのです。
 廃炉の道さえ描けずにある福島第一原発のことを、そしていまだに避難生活を強いられている3800万人余の人たちの願いを・・・。
 今、報道はロシアによるウクライナ侵略の一色に塗りつぶされています。
 あの日、数多くのかけがえのない命との別れを強いられた私たち被災地の人々は、それだからこそ命の尊さを深く胸に刻みました。
 自然災害ではなく、人の手と意思による戦争で多くの命が奪われている無残な映像は、そんな私たちを堪えられない思いにさせているのです。
 3月11日に在日ウクライナ大使館から、一本の追悼メッセージが寄せられました。
 〝東日本大震災から11年の今日、亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げますとともに、その家族や被災された方々に、心よりお悔やみとお見舞いを申し上げます。〟と。
 被災地からも、ウクライナに熱いメッセージを送りたいものです。
 〝ウクライナに、そして世界に平和を!〟
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# by cinema-tohoku | 2022-03-15 17:05 | その他 | Comments(0)
 今日は立春・・・暦の上では春を迎えたのですが、このコロナ禍、名実ともに一日も早い春の訪れが待ち望まれるところですが、そんな春の温かさを呼び寄せる様な映画と巡り合いました。
 「梅切らぬバカ」・・・ちょっと不思議な題名の映画の感動が人の口から口へと伝わって、この手の映画としては異例なヒットとなった作品です。
 50才を迎えた自閉症の息子…その息子をやさしく受け止める母親…そして、そんな二人との触れ合いで、いつの間にか変わって行く近隣の住民の方々・・・。
 長引くコロナ禍で困難を極める現代社会に、この作品はまるで春の風の様な温かさを私の胸に届けてくれたのでした。
 この作品の監督と脚本をつとめたのは、山形県酒田市出身の39歳の若者、和島香太郎さんでした。
 ご縁があって、この作品の東北地区でのホール上映配給をお引き受けすることになって、先ずは作品の生みの親たる和島監督とお会いしたいと思いました。
 しかしながら、時はコロナの第6波が猛威を振るっている時・・・直接のご面会が叶わず、ネット上でのご面会となりました。
 中学生の時映画の道を志し、ご両親の反対を押し切って映像系の大学に進学、卒業後は映画制作への道を拓いて来た経過を、和島監督は誠実なお人柄をうかがわせる語り口で私に語って下さいました。
 時代の閉塞感や不寛容さが語られる現代社会に、この映画はさわやかな感動となって観る人の心に、人がつながり、信じ合う喜びを語ってくれたのでしたが、その原点がこの作品の生みの親和島監督の人に向けた温かな視点にあったことを、40分におよんだネット面会は私に語ってくれたのでした。
 社会的に弱い立場の方々を、時代の中に取り残してはいけない・・・この映画の上映を通して、地域にこんな願いを届けたい・・・そんな思いにさせられた「梅切らぬバカ」でした。
        「梅切らぬバカ」_a0335202_10115814.jpg
©2021「梅切らぬバカ」フィルムプロジェクト



# by cinema-tohoku | 2022-02-10 11:28 | 映画 | Comments(0)
 「われ弱ければ-矢嶋楫子伝」・・・女性の社会的地位の向上を願った作品が完成、東京で完成披露試写会が開催されて、私も参加して参りました。
 矢嶋楫子・・・あまり耳になじみのないお名前で、私もこの作品に触れるまでは全く知らない方でした。
 矢嶋楫子は1833年、現在の熊本県益城町で、庄屋の6女として生まれました。
 兄のすすめで結婚するも、夫の酒乱に耐え難く子どもたちを連れて家を出て、長い黒髪を根元から切って夫に離縁を申し出、自らの歩みを始めます。
 時は、明治に改まっていました。
 楫子は上京して教師となり、教育者としての道を歩み始めます。
 そんな楫子のもとに、米国の宣教師マリア・ツルーからの誘いが届き、彼女はそのすすめにしたがってミッションスクールの教師へと自らの歩みを進めたのでした。
 一方楫子は、女性の社会的地位向上の運動の先頭に立ち、日本キリスト教婦人矯風会会頭となり、<一夫一婦制><禁酒運動>等に尽力、時代の中に数々の足跡を残しながら92歳の生涯を閉じたのでした。
 こんな矢嶋楫子の足跡を映画化したのは現代ぷろだくしょん、監督もつとめ、この製作の先頭に立ったのは山田火砂子さんでした。
 以前、このブログの「母」「一粒の麦」でも触れましたが、山田監督は当年とって何と90才を数えるご高齢者・・・それでも彼女の創作意欲は衰えることを知らず、このコロナ禍での困難の中、見事に作品を完成に導いたのでした。
 完成披露試写会の舞台に立った山田監督は舞台挨拶の最後に〝次の作品も作りますからね!〟。
 女は強い・・・。
     われ弱ければ-矢嶋楫子伝_a0335202_13593125.jpg

# by cinema-tohoku | 2022-01-27 14:01 | 映画 | Comments(0)
 新年あけましておめでとうございます。
 振り返ってみれば、コロナに明けコロナに暮れたこの2年間でした。
 上映会が全てなくなって仕事を奪われた私たちは、コロナの終息を願って日を重ねるしか道はありませんでした。
 それまでは、時間を惜しむようにして全国を走り回っていた私でしたが、出張はなくなり、来る日も来る日も事務所に出勤・・・。
 胸の中に拡がる不安の影・・・よくも心が折れずにここまでたどり着いたものだと思っています。
 そして2022年の幕明け…。
 本年は、私たちシネマとうほくが産声をあげてから25年の節目の年にあたります。
 25年・・・一口には語ることの出来ない道のりでもありました。
 大学卒業後、いくつかの決意と少しばかりの不安に頬を染めながら共同映画に入社、東北地区での配給に業務につきました。
 たくさんの素晴らしき人々、そして胸熱くなる感動との出会い・・・いくつかの辛く悲しい思い出も・・・そんな一つ一つの出来事が私を育て成長へと導いてくれました。
 そしていつの頃からか、決しておしきせではなく自らの頭で考え、自らの判断で道を拓くことが出来るようになっていた私は、1998年シネマとうほくを立ち上げました。
 映画運動の基盤を必ずしも労働運動のみに限定せず、より幅広い方々と手を携えた地域運動として展開し、より良き地域社会と子どもたちの健やかな未来の実現を願って・・・。
 そんな私たちの願いは、一歩ずつ全国に共感の輪をつなぎ、その映画運動が一つのピークを迎えようとしていた時、私たちは東日本大震災に見舞われました。
 石巻をメインロケ地に完成させた「エクレール お菓子放浪記」は、東北上映の道を絶たれ、私たちは大きな危機に直面することになりました。
 それでも私たちは、耐えました。
 たくさんの方々のあたたかなご支援に支えられて一歩ずつ、シネマとうほくは復興の道をたどって行ったのでした。
 そしてあの惨禍から10年・・・長年の夢を叶えて「あの日のオルガン」を完成させ、その上映がいよいよ本格的に始まろうとしていた時、私たちの前に立ちふさがったのがコロナ禍でした。
 そして辛い2年の時が流れていました。
 振り返ってこの25年の歩みは、度重なる困難に直面しながらも、数多くの人のやさしさに支えられながら必死につないで来た道のりでした。
 そして、その原点にあったのは、人の世の幸せを願うシネマとうほく発足からの変わらぬ思いでした。
 今年のお正月は、遠くに離れていた子どもたちも帰省して、2年ぶりに12人の家族全員が集ったにぎやかなお正月でした。
 それにしても4人の孫たちのにぎやかなこと・・・元気なこと・・・、そんな姿を見ながら、このほとばしる様なエネルギーの源泉は、子どもたち全てが持っている限りない未来に向けた夢と希望なのだと思ったのでした。
 そんな孫たちの姿を酔眼に映しながら、子どもたちの夢や希望を摘む社会にしてはならない・・・そんな思いも胸にしたお正月でした。
 そのために、もうしばらくの自らの努力も胸に誓って・・・。
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# by cinema-tohoku | 2022-01-06 14:58 | ご挨拶 | Comments(0)