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 今日は立春・・・暦の上では春を迎えたのですが、このコロナ禍、名実ともに一日も早い春の訪れが待ち望まれるところですが、そんな春の温かさを呼び寄せる様な映画と巡り合いました。
 「梅切らぬバカ」・・・ちょっと不思議な題名の映画の感動が人の口から口へと伝わって、この手の映画としては異例なヒットとなった作品です。
 50才を迎えた自閉症の息子…その息子をやさしく受け止める母親…そして、そんな二人との触れ合いで、いつの間にか変わって行く近隣の住民の方々・・・。
 長引くコロナ禍で困難を極める現代社会に、この作品はまるで春の風の様な温かさを私の胸に届けてくれたのでした。
 この作品の監督と脚本をつとめたのは、山形県酒田市出身の39歳の若者、和島香太郎さんでした。
 ご縁があって、この作品の東北地区でのホール上映配給をお引き受けすることになって、先ずは作品の生みの親たる和島監督とお会いしたいと思いました。
 しかしながら、時はコロナの第6波が猛威を振るっている時・・・直接のご面会が叶わず、ネット上でのご面会となりました。
 中学生の時映画の道を志し、ご両親の反対を押し切って映像系の大学に進学、卒業後は映画制作への道を拓いて来た経過を、和島監督は誠実なお人柄をうかがわせる語り口で私に語って下さいました。
 時代の閉塞感や不寛容さが語られる現代社会に、この映画はさわやかな感動となって観る人の心に、人がつながり、信じ合う喜びを語ってくれたのでしたが、その原点がこの作品の生みの親和島監督の人に向けた温かな視点にあったことを、40分におよんだネット面会は私に語ってくれたのでした。
 社会的に弱い立場の方々を、時代の中に取り残してはいけない・・・この映画の上映を通して、地域にこんな願いを届けたい・・・そんな思いにさせられた「梅切らぬバカ」でした。
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©2021「梅切らぬバカ」フィルムプロジェクト



# by cinema-tohoku | 2022-02-10 11:28 | 映画 | Comments(0)
 「われ弱ければ-矢嶋楫子伝」・・・女性の社会的地位の向上を願った作品が完成、東京で完成披露試写会が開催されて、私も参加して参りました。
 矢嶋楫子・・・あまり耳になじみのないお名前で、私もこの作品に触れるまでは全く知らない方でした。
 矢嶋楫子は1833年、現在の熊本県益城町で、庄屋の6女として生まれました。
 兄のすすめで結婚するも、夫の酒乱に耐え難く子どもたちを連れて家を出て、長い黒髪を根元から切って夫に離縁を申し出、自らの歩みを始めます。
 時は、明治に改まっていました。
 楫子は上京して教師となり、教育者としての道を歩み始めます。
 そんな楫子のもとに、米国の宣教師マリア・ツルーからの誘いが届き、彼女はそのすすめにしたがってミッションスクールの教師へと自らの歩みを進めたのでした。
 一方楫子は、女性の社会的地位向上の運動の先頭に立ち、日本キリスト教婦人矯風会会頭となり、<一夫一婦制><禁酒運動>等に尽力、時代の中に数々の足跡を残しながら92歳の生涯を閉じたのでした。
 こんな矢嶋楫子の足跡を映画化したのは現代ぷろだくしょん、監督もつとめ、この製作の先頭に立ったのは山田火砂子さんでした。
 以前、このブログの「母」「一粒の麦」でも触れましたが、山田監督は当年とって何と90才を数えるご高齢者・・・それでも彼女の創作意欲は衰えることを知らず、このコロナ禍での困難の中、見事に作品を完成に導いたのでした。
 完成披露試写会の舞台に立った山田監督は舞台挨拶の最後に〝次の作品も作りますからね!〟。
 女は強い・・・。
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# by cinema-tohoku | 2022-01-27 14:01 | 映画 | Comments(0)
 新年あけましておめでとうございます。
 振り返ってみれば、コロナに明けコロナに暮れたこの2年間でした。
 上映会が全てなくなって仕事を奪われた私たちは、コロナの終息を願って日を重ねるしか道はありませんでした。
 それまでは、時間を惜しむようにして全国を走り回っていた私でしたが、出張はなくなり、来る日も来る日も事務所に出勤・・・。
 胸の中に拡がる不安の影・・・よくも心が折れずにここまでたどり着いたものだと思っています。
 そして2022年の幕明け…。
 本年は、私たちシネマとうほくが産声をあげてから25年の節目の年にあたります。
 25年・・・一口には語ることの出来ない道のりでもありました。
 大学卒業後、いくつかの決意と少しばかりの不安に頬を染めながら共同映画に入社、東北地区での配給に業務につきました。
 たくさんの素晴らしき人々、そして胸熱くなる感動との出会い・・・いくつかの辛く悲しい思い出も・・・そんな一つ一つの出来事が私を育て成長へと導いてくれました。
 そしていつの頃からか、決しておしきせではなく自らの頭で考え、自らの判断で道を拓くことが出来るようになっていた私は、1998年シネマとうほくを立ち上げました。
 映画運動の基盤を必ずしも労働運動のみに限定せず、より幅広い方々と手を携えた地域運動として展開し、より良き地域社会と子どもたちの健やかな未来の実現を願って・・・。
 そんな私たちの願いは、一歩ずつ全国に共感の輪をつなぎ、その映画運動が一つのピークを迎えようとしていた時、私たちは東日本大震災に見舞われました。
 石巻をメインロケ地に完成させた「エクレール お菓子放浪記」は、東北上映の道を絶たれ、私たちは大きな危機に直面することになりました。
 それでも私たちは、耐えました。
 たくさんの方々のあたたかなご支援に支えられて一歩ずつ、シネマとうほくは復興の道をたどって行ったのでした。
 そしてあの惨禍から10年・・・長年の夢を叶えて「あの日のオルガン」を完成させ、その上映がいよいよ本格的に始まろうとしていた時、私たちの前に立ちふさがったのがコロナ禍でした。
 そして辛い2年の時が流れていました。
 振り返ってこの25年の歩みは、度重なる困難に直面しながらも、数多くの人のやさしさに支えられながら必死につないで来た道のりでした。
 そして、その原点にあったのは、人の世の幸せを願うシネマとうほく発足からの変わらぬ思いでした。
 今年のお正月は、遠くに離れていた子どもたちも帰省して、2年ぶりに12人の家族全員が集ったにぎやかなお正月でした。
 それにしても4人の孫たちのにぎやかなこと・・・元気なこと・・・、そんな姿を見ながら、このほとばしる様なエネルギーの源泉は、子どもたち全てが持っている限りない未来に向けた夢と希望なのだと思ったのでした。
 そんな孫たちの姿を酔眼に映しながら、子どもたちの夢や希望を摘む社会にしてはならない・・・そんな思いも胸にしたお正月でした。
 そのために、もうしばらくの自らの努力も胸に誓って・・・。
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# by cinema-tohoku | 2022-01-06 14:58 | ご挨拶 | Comments(0)
 文化庁のご支援を受けた上映会が3日間にわたって連続して行われました。
 その一つ「あの日のオルガン」は、私たちが熱い思いを込めながら製作、そして全国上映に取り組んでいましたが、その上映がピークに向かおうとしていた時、コロナ禍が全ての上映を中断に追い込んだ、辛い思い出に彩られた作品でした。
 文化庁に私たちの計画を申請するとき、この作品だけは加えたい…そんな願いを込めて実現した「あの日のオルガン」上映会でした。
 上映地となった郡山市、栗原市は、いずれもが昨年春の上映が決まり、実行委員会の方々から市民に向けた働きかけが始まっていた地でした。
 幸い、それぞれの当時の実行委員会の方々は、この支援上映会にご賛同下さり、そのご協力もいただいての上映会となりました。
 結果は、そんな方々のご努力で、いずれも400名を数える市民の方々にご参加いただき、コロナ禍以降では最高の観客の上映会となりました。
 この上映には、平松監督も足を運んで下さり、郡山上映終了後、協力者の方も交えた懇親会は、沢山の方々のご参加と感動のお声に大いに盛り上がり、嬉しいお酒はその盃を重ねて行ったのでした。
 そして3日目は、仙台での「若者たち」上映会でした。
 「若者たち」は、俳優座が製作、1967年に公開されるや当時の若者たちの心をつかみ、上映は若者たちの手による<自主上映会>としてその輪を全国に拡げ、最終的には全国300万人が観賞する驚異的な大ヒットとなった作品でした。
 当時、私は東京での大学生活を送っていました。
 生活の場となったのは、千葉県松戸市にあった学生寮…寮の仲間たちと地域での映画サークルをつくって活動をしていました。
 そんな活動の一環として取り組んだのが、「若者たち」「若者はゆく」(シリーズ2回作)の上映会でした。
この上映に向けた私たちの願いは、幸い多くの市民の胸に届き、会場となった松戸市民会館を満席に埋める1000名超の上映会となりました。
 そして、この上映会はその後の私の歩む道に大きな影響を与える上映会ともなったのでした。
 社会的諸問題に目を向けることもなく育っていた高校生までの私でしたが、時代の中に傷つきながらも必死に人とつながりながら、その未来に向けて精一杯に生きようとする「若者たち」の5人兄弟の姿は、私に大きな感動とショックも与えたのでした。
 殊に三男三郎(山本圭が好演)は早稲田大学の学生の設定、彼の語るセリフの一つ一つは、己の胸に〝君はどう生きる・・・〟そんな言葉となって突き刺さって来たのでした。
 そして、そんな感動に導かれるようにして私は、大学卒業後、自らの進む道を、<人の幸せに寄り添う映画運動の道>へと進めたのでした。
 あの日から50余年・・・久し振りに再会したこの作品を映すスクリーンは、私の涙でにじんでいました。
 コロナ禍でかつてなかった程の困難に追い込まれていた私を、「若者たち」は新たな感動で支え、やさしくその背をそっと前へと押し出してくれた様でした。
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栗原市「あの日のオルガン」
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「若者たち」


# by cinema-tohoku | 2021-12-08 15:16 | 映画 | Comments(0)
 私たちシネマとうほくも加盟している、協同組合ジャパン・スローシネマ・ネットワーク(略称JSN)の<第8回定期総会>が開かれました。
 例年通りであれば、各社が一堂に会して行われていたのですが、このコロナ禍ではそれも叶わず、ZOOM総会と相成りました。
 去年の総会は、これもコロナの影響で、理事会での代行となっていましたので、一般組合員とは2年ぶり…、不便なパソコン画面上での再会ではありましたが、久しぶりの懐かしいお顔を見ながら、2時間におよんだ総会は無事に終了したのでした。
 それにしても、各社から語られるのは、あまりにも辛い現状…。
 国の支援金と、わずかな行政の助成策を頼りに、支出もきりつめて耐えて来た2年の様子が、交々に語られました。
 
 新型コロナウイルスの感染拡大が、大きな障害となって私たちの前に立ちはだかってから2年近い時が流れて行きました。
 この間、私たちの社会には、数々の暗い影が投げ落とされ、いくつかの問題を抱えながらも歩みを続けてきた日本社会を一気に脆弱化させ、その問題点は社会的弱者を直撃しています。
 自殺者の急増に胸が痛みます。
 しかも、際立って増加したのが、女性と子ども達…。
 非正規労働者の解雇や、自己責任論が語られる社会の息苦しさで道を失った女性が自らの命を絶ち、自らの未来に夢を描けなくなった子ども達が死を選択しています。
 コロナ以降の社会が、さらに厳しい貧困と格差拡大の社会となることを危惧せざるを得ません。
 しかしながら、国民の困難な状況に対して、きっと国民の命と暮らしを守る声が沸き起こるであろうことも、これまでの数々の歴史が語っていることでもあります。
 こんな時に求められて来るのが、人の心に直接働きかけ、人間の尊厳や連帯を語る文化の力ではないでしょうか。
 私たちはこれまで、人の幸せに寄り添いながら、映画の製作上映を、ご賛同の方々と手を携えた地域運動として展開し、数々の成果をその足跡として刻んで来ました。
 コロナ以降の社会に、私たちがその役割を果たさなければならない時がきっと来る…。
 そのためにも、今は耐えてこの時代を生き抜こう…。
 そんな思いを語り合った第8回定期総会でした。
 終了後の懇親会は、次回のお預けにして…。
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不便なZOOM総会