「梅切らぬバカ」の青森県上映が久しぶりに動き出し、週末の3日間をかけての青森県出張となりました。
日曜日の会議は夕方に終わり、その後の空いた時間を利用して、久し振りに三内丸山遺跡を訪れました。
三内丸山遺跡・・・1992年から始まった発掘調査で、縄文時代の大集落跡が発掘され、そこに現れた姿は、その後の縄文観を変えた程の遺跡でした。
私が初めてここを訪れたのは、発掘が始まってまだ間もなかった頃のことだったと記憶しています。
まだ発掘途上の遺跡に異彩を放って私の胸に大きな印象を与えたのは、やはり<大型掘立柱建物跡>に、刻まれた6本の栗の木の柱穴でした。
その柱穴は直径と深さ共2m、柱の間隔は全て4.2m・・・この巨大な柱の上にどんな建物が建っていたのか、そして、その建物は一体何に使われたものなのか・・・未だに数々の謎を語る縄文の遺跡は、私の胸に大きな印象を残して、その後の東北を起点とした映画運動を願った、シネマとうほく発足にも影響を与えることになったのでした。
2回目に訪れたのは2000年、シネマとうほく製作第1回作品「アテルイ」の製作運動をスタートさせ、エミシの原点としての縄文のこころを映画づくりの中心にすえなければ・・・そんな思いで、出崎監督を始めメインスタッフと足を運んだ時でした。
そして、それから随分の時間が流れていました。
久しぶりに訪れた三内丸山遺跡は、見違えるように整備も進み、遺跡から発掘された遺品を展示する展示館には、それらの品々が順良く展示され、この遺跡の歴史上の意義をトータルで伝えるものとなっていました。
北海道から持ち込まれた黒光りする見事な黒曜石や、富山から運ばれたヒスイの大玉は、三内丸山遺跡の住民の他地域との広い交流を語っていました。
又、ていねいに編まれたポシェットや、見事にデザインされた装身具の数々は、その豊かな文化性を語り、掘り出された土偶の数々は、沢山の謎と共に、そのあふれるばかりの精神性の豊かさを私に語ってくれたのでした。
時間をかけて発掘品に触れながら、いつの間にか私は胸の高鳴りを覚えていました。
日本の歴史の中でも例を見ない1万年に及んだ縄文の時代は、自然とやさしく共生しながら、争いのない平和な時代でもあったのでした。
大量消費文明に頭の先までドップリと浸かり、それでも強欲に更なる消費を求めようとする現代社会に、北の地の遺跡は静かに警鐘を鳴らしているのかも知れません。
人の幸せとは?・・・
一部復元された大型掘立柱建物跡

謎を語る土偶