突然の訃報でした。
長年にわたって日本の芸能界の一線で活躍をされていた石田あゆみさんがお亡くなりになったとの報道は私を驚かせました。
私たちが、西村滋さんのご本を原作に、映画「エクレール、お菓子放浪記」の製作を思いたったのは20年ほど前のことだったと思います。
<新自由主義>が日本の政治の旗として掲げられ、社会的格差が拡大して社会的弱者が取りこぼされている現状に、“支え合う人の心のやさしさ”を語ろうとしたこの映画の製作には、幸い東北のテレビ局、新聞社等が賛同の手を重ねて下さり企画は製作開始に向けて歩み出したのでした。
近藤監督とキャスティングの話し合いを始めた時、本作でとても大切な役どころとなる<フサノバアサン>役に石田あゆみさんを・・との願いが監督から語られたのでした。
近藤監督が参加したある会合で石田さんとご一緒した時、彼女から“私も年をとったので、バアサン役をやりたい・・・”との話があったとのこと、サプライズも含めて是非いしだあゆみさんを・・・との希望でした。
しかしながら、石田さんは超一流の役者さん・・当然ながら出演料も常識的には大きなものとなるし、私たちが考えていた全国公開は必ずしも映画館のみによらない<上映運動>・・
数々の困難が予想されましたが、当たって砕けろ・・! 監督共々石田さん所属のイザワオフィスに石田さん担当のベテランマネージャーをお訪ねしました。
幸い、作品の概要はとてもよく聞いて下さり、話も進む中で彼女からいかほどのギャランティを予定していましたか?の問い、いよいよと思い素直に私たちが用意できる金額を申したところ、その金額に彼はしばし唖然・・・。
ともかく石田とも相談します・・とお別れした時、これはご無理かな、との思いが胸に拡がったのでした。
しかしながら、ほどなくして彼女からのお電話、石田に話したところ、私共が進めて来た<上映運動>に興味を持って下さり、“石田が出たいと申しているので、その条件でお引き受けします”とのご返事でした。
その後諸準備が整い、クランクインを迎えたのは2010年10月、秋のやわらかな光が降り注ぐ宮城県石巻市の北上川河畔でのことでした。
広い河川敷をはさんで対岸に、コンクリート造りの立派な建物が。
ご参加していた石巻市役所の方にお訪ねしたところ、あそこは<大川小学校>です、とのこと。
翌年3月この一帯を襲った津波で児童、教師76名の命を奪うことになった大川小学校の対岸でのクランクイン・・・始まりからこの映画は不思議な運命に彩られていたのかも知れません。
撮影は順調に進みました。
作品の設定上、多くのエキストラが必要な作品、石巻市民にご参加いただいた撮影現場では、エキストラの方々と役者さんとの交流も・・こんなことにも石田さんは嫌な顔せず応えて下さったのでした。
そして、完成、翌2011年3月10日の東京での完成披露試写会にもいしださんは舞台あいさつに足を運んで下さいました。
満席の会場からの上映終了後の共感の拍手は、見事な全国への船出の合図にも聞こえていたのでしたが・・・何とその翌日、東日本の沿岸一帯を襲った波の壁は、この作品に込めた私たちの夢をも破壊したかと思えたのでした。
いくつかの企業と多くの宮城県民のご支援で完成したこの作品、完成さえすれば東北での上映で製作にかかった資金の半分は回収を・・・との計画を立てていましたが、その東北の上映全てが実現出来なくなり、私は茫然として被災地石巻に立ち尽くしていました。
そんな折、全国からあたたかな支援のお声が寄せられました。
この映画のテーマは“支え合う人の心のやさしさ”、ロケ地は石巻、そして完成披露試写会はあの前日…。
不思議な運命に彩られたこの作品は、被災地支援の映画として全国に伝えるべき作品になった・・・。
こんなお声に励まされて、4月の東京でのチャリティ試写会を始めとして全国への被災地支援を伝える上映会が始まったのでした。
石田さんはこの動きにも熱い思いでご参加して下さいました。
東京、名古屋での試写会で被災地支援を語る彼女の脳裏には、あの撮影現場のたくさんの石巻市民の笑顔があったのでした。
時には涙ぐみながら語る彼女の思いはこの作品を全国に押し出す大きな力になったのでした。
そしてこの上映は2年をかけて全国47都道府県850ヶ所45万人観客の大きな心の輪となってつながったのでした。
先日の震災から数えて14年の3月11日は、あの時と打って変わって温かな春の日差しが差し込む日となりました。
あの時から14年・・・そしてほどなくして石田あゆみさんが旅立たれたことに、不思議な縁さえ感じさせられたのでした。
今はただ合掌・・・。
安らかにお休み下さい・・・。

🄫2011『エクレール・お菓子放浪記』製作委員会