616日、京都の地にJAN加盟各社が集い第2回総会が開催されました。

 協同組合 ジャパン・スローシネマ・ネットワーク(略称JSN)は昨年9月結成されました。

 観客に寄り添った日本映画の未来を、そして映画の上映を通した地域コミュニケーションの再生を願って船出をしたJSNでしたが、この一年足らずの間に、その願いは映画の作り手の方々の願いにもつながった様でした。

 年が明けてから間もなく、多くの映画製作者や監督から全国配給のご依頼が相次ぐ様になって来ました。

いつまでも続く平和を願った作品、崩壊が語られる様になってしまった家族の再生を語ろうとする作品、そして高らかに人権を謳い上げる作品

 まさに多様な作品が、JSNの手を通して多くの観客のもとに届くことを願って、私たちのもとに持ち込まれて来たのでした。

 配給業務の生命は優れた作品を確保すること、私たちにとってこの動きは嬉しいことではありましたが、JSNの配給の展開はまさに手作り、一気に多くの作品を手がけることは到底不可能であり、心を込めたご依頼があっても、全体を見据えたスケジュールも含め、残念ながらお断りせざるを得ない作品もございました。

 こんな現状を前に、時期的にはいささか早かったのですが前倒しで総会を開き、こんなご期待に応えることの出来るJSNを作り上げるため開かれた総会でした。

 この間、新たに発足し、正式にJSNに加盟した「シネマソラ」の歓迎の意も兼ねてあえて開催地は、その所在地の京都に設定した総会には、どうしても参加が叶わなかった2社を欠きながら加盟11社から13名がご参加、日本映画と地域社会の未来に向けた熱い議論が交わされたのでした。

 殊に、2015年度のスタートを切る配給作品「ソ満国境15歳の夏」を巡っては、既に上映に向けた動きを始めた各社からその報告がされ、戦後70年を記念し、平和への熱い願いを語るこの作品の反響の素晴らしさは、参加者一同全国配給成功に向けた確信ともなった様でした。

 又、この作品に関わってその原作をお書きになった田原和夫さんが、ご多忙なお時間を割いてこの総会にご参加して下さり、70年前のあの悲惨だった体験を生々しく私たちに語って下さいました。

 誠実に、そして力を込めて語られる田原さんのお言葉の一つ一つは、私たちが今、この作品を通して一人でも多くの方々にお伝えしなければならないものを、確実に私たちの胸に刻みつけて下さった様でした。

 数々の夢を、そして必ずやそれを実現する決意を確認し、総会は大成功のうちにその幕を閉じ、引き続いて夜が更けるまで続いた懇親会で、そんな願いは更に熱く一人一人の胸に深く定着したのでした。

 新たな年度に旅立つ私たちへのご指導ご援助を心からお願い申し上げます。

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総会の様子

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「ソ満国境 15歳の夏」原作者の田原和夫さん




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映画「ソ満国境 15歳の夏」より


 611日、いつまでも続く平和を願って「ソ満国境 15歳の夏」の東北初の試写会が仙台市で行われ、上映運動スタートへの第一歩が印されました。

仙台市では、70年代から80年代にかけて、「親子映画の会」が、子どもたちの健やかな未来を願って大活躍をしていました。

運動に賛同した親と教師とで構成されたこの会は、ていねいに年2回の上映会を重ね、その度毎に6,000名~7,000名、時によっては10,000名を数える親と子に数々の感動を届けて来ました。

「鯉のいる村」「教室205号」「セロ弾きのゴーシュ」…振り返れば数多くの名作が親子映画の会の手を通して子どもたちに伝えられていたのでした。

 又、これらの親子映画の定例上映会とは別に、数々の平和を語る映画も、親子映画の会も参加した上映実行委員会の手で仙台の親と子の胸に感動を刻んでいました。

「はだしのゲン」は、仙台の子どもたちに原爆の実相を伝えましたし、「ガラスのうさぎ」が語る平和への願いは、市民の手から手に伝えられ、14,000名を超える大ヒット上映ともなったのでした。

しかしながら、その後日本映画大手各社がその営業戦略の中核に子どもをターゲットにした作品を設定し、大宣伝によるアニメが一大市場となる中で、親子映画の会はその運動が困難となり、ほどなくその活動を停止、又労働運動の再編は日本の労働運動を困難な時代へと突き落とし、その結果これらの上映運動は極めて困難な状況となって年を数えていました。

 そして巡り来た戦後70年の年、そして日本の将来を巡って戦争と平和が論じられている今、かつて仙台の子どもたちに映画を通して、心の成長や平和を語って来た方々の中から「ソ満国境 15歳の夏」の上映実現のお声があがって来たのは必然の結果だったのかも知れません。

まずは何人かに声をかけて映画を観てみよう…こんな思いで開かれた試写会には、40名を超える方々が思いを込めてご参加して下さいました。

上映終了後、丸くなって行われた「感想を語る会」では、交々に感動のお声が語られ、中にはご感想を語りながら思わず言葉につまる方も…。

全員一致で上映運動スタートを決め、東北第一号の上映は仙台からその名乗りをあげることになったのでした。

子どもたちの未来を巡って、まさに信じ難い事件が毎日のように報じられるようになってしまった現代社会…。

その底流には、日本社会が支え合いのそれから、差別と自己責任を語る社会に変容し、更には人の生命をいつくしむ心から、戦争への道を再びひらこうとする心が大きく展開し始めたことと無縁ではないと思われるのです。

そんな今、かつて映画を通して子どもたちの心を育んだこれらの方々の上映への決意は、私のこの映画の全国上映への確信ともなって胸に伝わって来たのでした。

“人の世の幸せを…”そして“いつまでも続く平和を…”「ソ満国境 15歳の夏」は、こんな声を今、東北の地に語り始めた様です。

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試写会後の「感想を語る会」



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# by cinema-tohoku | 2015-06-17 09:35 | 映画 | Comments(0)


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千曲市...長野県北部に位置し、島崎藤村が「千曲川旅情の歌」にうたった清流千曲川が町の中を流れる、とても心安らぐ町です。

そんな町に昨夜は、心を込めて「じんじん」上映に取り組んで下さった、心やさしき方々が集い、しばしの反省会に楽しい話の花をさかせていました。

この町の上映は、二人の市民の思いから始まりました。

お一人は、古くから市中心部で書店を営んでらっしゃった店主さん、そしてもうお一人は、とてもお元気な女性市議の方でした。

お二人は、別々の場での試写会で「じんじん」をご覧になり、大感激!何とか千曲市での上映の実現を...そんな熱い思いで私に連絡をとって下さいました。

それでは一緒にお会いして上映のご相談を、と設定された初めての打ち合わせには4人の市民の方々がお集まりになりました。

この映画を一人でも多くの千曲市民にお伝えしたい...熱い思いはありながら、もちろんのこと映画を上映した経験など皆無の4人...不安な思いで私を見つめる皆様方に私は、こんな上映運動をご提案したのでした。


これまで、いわゆる「上映実行委員会」をつくろうとした時、しごく当然のようにどんな組織にお声をかけようか...こんな発想からその動きが始まるのが一般的でした。

しかしながら、組織と組織との上映運動となるなら、そこには「大人の判断」としてのバランスや、その組織に対する好悪の感情など、本来の上映の意義とはかけ離れた考えが優先して実行委員会づくりが語られてきました。

しかしながらこの作品のテーマは「地域社会と家族の再生」、このテーマはそれぞれのよって立つお立場をこえて共有できる普遍性をもったテーマではないか。

とするなら、組織や肩書きよらずに“一人でも多くの方々にお伝えしたい...”この一点で、個人の資格で手を結んだ上映運動を展開してみては...。

こんな「個人結集型」の上映運動をご提案したのでした。


最初はいささかの不安と戸惑いをにじませていらっしゃいましたが、上映までの道筋をお話しすることでご納得、市民がその手を横に携えた上映運動は始まったのでした。

まず第一歩は、実行委員会づくりのための試写会でした。

4人の方々が、周りのお仲間にお声をかけ観ていただいて、その上でご賛同いただけるなら、このお一人お一人が手をつないだ実行委員会をスタートさせよう...そんな思いで開いた「先ずもっての試写会」には30人程の市民の方々がおいでになりました。

上映終了後の話し合いでは交々に感動の声が語られ、上映実行委員会の発足へとつながっていったのでした。

そして、実行委員会が発足し、その最大の活動として取り組んだのが、「もっとおおきな試写会」の実現についてでした。

30人の実行委員が、又それぞれお一人お一人の周りの友人知人にお声をかけて試写会にご参加いただこう、そしてご覧になった上で上映の成功にご賛同いただけるなら、この方々に前売券をお預かり(買い取りではなく余った券は返す)いただき上映成功をめざそう...。

こんな願いで開催した試写会には200人の方々がご参加、前売券はこの方々の手にゆだねられ市内に大きく拡がって行ったのでした。

そして迎えた上映会には800人にのぼる市民の方々がご参加になり、上映は大成功のうちに幕を閉じたのでした。

ひたすらに、そのよって立つお立場の違いを強調するのではなく、それぞれの違いを前提にしながらも、お互いの一致するところでつながろうとした千曲市上映の成功は、民主主義の本来あるべき姿も語ってくれたのではないかと思えるのです。

心やさしき方々の明るい、そして確信に満ちた笑い声は「アンズの里」に夜更けるまで響いていたました。


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反省会の一コマ



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「アテルイ」...懐かしい題名の朗読劇のシナリオが私のもとに届きました。

ことの始まりは17年前にさかのぼります。

 意を決して長年お世話になった共同映画から独立し、東北の地にシネマとうほくを立ち上げた時、私の胸には一本の映画製作の決意がありました。

 「アテルイ」...今から約1200年前、古代東北のエミシの勇者をテーマに長編アニメーションを製作し、未来に向けて生きようとする東北の子どもたちに正しい歴史の手渡しと、併せて故郷への誇りを語ろうとした決意でした。

 かつて東北は幾多の不当な「差別」にさらされてきました。

 暗く・貧しく・劣っている...東北の地はこんな言葉に彩られ、それ故の悲しい過去も数多く経験してきました。

 東北岩手に生を受けた私もこの例外ではありませんでした。

 しかしながら、共同映画に自らの生きる道を求め、その仕事を通して多くの方々とお会いする中で、まさに衝撃的な事実との出会いは私の胸を大きく動かしたのでした。

 今から約1200年前、東北の地は遠く縄文の歴史と文化を受け継ぎ、自然と心を通わせながら慎ましやかにその生を営んでいました。

 その頃、大陸から渡来してきた民たちは、近畿地方に「ヤマト」を打ち立て、その版図を全国に向けて拡げつつありました。

 そして、最後まで「ヤマト」の拡大になびかなかったのが、深い縄文の森に守られた東北の地だったのでした。

 「ヤマト」は東北の民を「エミシ」と蔑み、必ずやヤマトの王のもとにひれ伏させるのだ...と語りながら侵略の圧倒的な大軍を送って来ました。

 これに対し、かかんに立ち上がり、故郷の生活と誇りを守る戦いに立ち上がった勇者達がいました。

 そして、その闘いの先頭に立ったのが若き勇者アテルイであったのでした。

 789年、後に巣伏の戦いと呼ばれた最初の軍事的衝突では、押し寄せたヤマトの大軍を迎え撃ち、少数ながら、エミシ軍はこれを完膚なきまでに打ち破り都に追い返したのでした。

 しかしながら、圧倒的な物量で攻め寄せるヤマトとの戦いは長期にわたり、疲弊しきった東北の民の根絶やしを避けるため、アテルイは自ら投降し、京の都にひきたてられて行ったのでした。

 その後、統一日本の一部となった東北各地には、「鬼伝説」が語られるようになりました。

 悪い鬼が人々を苦しめていた、都から勇者がやってきてこの鬼を懲らしめて民を救った...。

 この中に語られる「鬼」こそ、その真の姿は東北の誇りをかけて勇敢に立ち上がった勇者たちであり、これを退治したとされるのが、ヤマト侵攻軍の先頭に立った坂上田村麿その人だったのでした。

 アテルイ死後の東北の歴史は白を黒に置き変えて語られ、その後の東北の悲しい歴史の原点はまさにここにあったことを知った私の胸は大きく揺さぶられたのでした。

 いつの日にか、「アテルイ」をテーマに映画をつくり、東北の誇り高い歴史をそのままの姿で東北の子どもたちに伝えたい...。

 そんな私の願いは、幸い岩手県知事(当時の増田寛也知事)はじめ多くの方々のご賛同となり、映画は2001年完成を迎えたのでした。

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 そしてその作品の中で、素晴らしいプロの技でアテルイの盟友モレ役をつとめていただいたのが、声優平野正人さん(岩手県八幡平市出身)であったのでした。

 久しぶりに平野さんからお電話があったのは、年も明けて間もない頃であったと記憶しています。

 現在、大阪芸術大学声優科で教鞭を取って声優を目指す若者と向かい合っている平野さんは、明春、大学を旅立つ卒業生の卒業製作として私たちのつくった「アテルイ」のシナリオをもとに朗読劇を製作したい...。こんな熱い思いを私に語って下さったのでした。

 このお申し出を喜んでお受けし、製作されたシナリオが私の元に届いたのでした。

 今から約1200年前、故郷を守るため立ち上がった東北の勇者たちが明年 3月大阪の地によみがえるのです。

 アテルイ斬殺の地、枚方市をそばにした大阪市の地に...。


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# by cinema-tohoku | 2015-06-01 11:45 | 映画 | Comments(0)

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 以前のブログ「満開の桜」で、この度全国配給を担当することになった「ソ満国境 15歳の夏」に描かれた新京第一中の少年達の史実を「満蒙開拓青少年義勇軍」と書きましたが、この表現は間違っていました。

 「満蒙開拓青少年義勇軍」は日本国内から集められた少年達を旧満州国農村部に生活させ、期限を定めずに農業に従事させながら一旦事がおこれば銃をもってこれにあたる、半ば兵士(兵士と呼ぶにはあまりに幼い彼らですが)でもありました。

 しかしながらこの度の映画に描かれた新京第一中学の少年達は、関東軍のための食料増産にあたるべく、一定の期間を限って「報国農場」の援農にあたったものでした。

 この限りでは「青少年義勇軍」とは明らかに区別されるものでございました。

 私の至らなさでありましたことをお詫び申し上げます。


 それでも、この報国農場の援農のその後ろにあった実相を見つめた時、改めて怒りを覚えるのです。

 原作者田原さんを始めとした新京第一中の少年達がソ満国境の報国農場の援農にはいったのはまさに敗戦間近の時でございました。

 この頃には、「無敵」と語られた関東軍は、その大半の兵を南方戦線にさかれ、その実体はまさにスカスカでした。

 そして、近々国境を破る可能性の大きなソ連軍に備えるため、戦線を大きく後退させる準備も着々と進めていたのでした。

 しかし、その作戦をソ連軍にさとらせないための策の一つとして、新京第一中の少年達をソ満国境に配置したのが実体でした。

 民間人が居るなら、それを“守る”ために関東軍もいるはずだと...。

 こんな策略のために少年達は国境に置かれたのでした。

 89日、戦車の車列を連ねながら、圧倒的なソ連軍が国境を破った時、そこには既に日本軍の姿はなく、徒手空拳で取り残された少年達だけがそれに向かいあうことになったのでした。

 まさに「軍隊は国民を守るものではない...」この実相を見事に語った惨劇が展開されることになったのでした。

 今また、戦争と平和を巡る論議が活発に交わされるなかで公開されるこの作品を通して、「戦争」そして「軍隊」の実相も語ってみたいと心から願うのです...。


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# by cinema-tohoku | 2015-05-27 14:08 | 映画 | Comments(0)