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 昨日は「立冬」・・・、暦の上では冬を迎えるというのに、ここ東京は季節はずれの暖かさ・・・思わず上着をぬいで手にかかえました。
 台風、集中豪雨、地震・・・昨今の「異常気象」は、もはや異常とは言えない、日常のものになってしまった様です。
 この先に、漠たる不安も感じさせる自然現象が続いています。
 自然が異常になると、人の心も異常になってしまうのでしょうか。
 事は10月31日のことでした。
 甲府から東京に戻り、私が以前勤務していた会社の社長と久しぶりに旧交をあたためようと、待ち合わせをしたのが渋谷駅でした。
 夕刻に渋谷に到着、そしてそのあまりのすさまじさにしばし立ちつくしたのでした。
 そうです、この日はかの「ハロウィン」なるその日だったのでした。
 この頃には、駅前のハチ公前広場は、立錐の余地のない人、人、人で埋まり、その一人一人に目をやるなら、そのすさまじい姿に絶句でありました。
 そして刻一刻と、その人の波は大きくふくらんで行ったのでした。
 本来は〝秋の収穫を祝い、悪霊を追い出す宗教行事〟とのことですが、この祭りの本来の意義は全て放り投げ集まる若者の姿は、ただひたすらに刹那的な快楽と、バカ騒ぎを求める悲しい姿としてしか、私の目には写りませんでした。
 消費文明のみをあおるマスコミにおどらされて、「理性」や「知性」とは真逆な道をたどるあわれな姿にも感じさせられたのでした。
 明けて今朝のニュースは、アメリカの中間選挙の結果を報じていました。
 反知性とフェイクに塗り固められたトランプ政権にストップをかけたのは、立ち上がったアメリカの若者たちであったと・・・。
 このあまりの落差にぼう然としながら、それでもあきらめてはならないのだと思うのです。
 私の手の中にある文化としての映画を、今を生きる一人一人に、そして若者たちにも今だからこそ伝えなければ・・・。〝人の情〟や〝人の道〟を映画を通して学んできた私たち世代なのですから・・・。
 そんな思いにさせられた渋谷の一夜でした。
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映画「あの日のオルガン」より


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 人生、年を積み重ねて、その数何と70年を数えることになりました。
 この私が70歳…信じ難い思いで迎えたその日を、遠く離れた息子と娘は電話で、そして仙台に生活する娘家族は我が家を訪れて、心優しく古希の日を祝ってくれました。
 私たち世代は、戦後ベビーブームの世代、まさに団塊の中核とも呼ばれた世代でした。
 振り返るなら、子ども時代は今の基準で語るなら、まさに国民は全てが貧しい生活を送っていました。
 その日々の生活の中に〝ぜいたく〟は皆無・・・それでも地域社会と家族の絆はしっかりと私たちを支え、今日よりきっと素晴らしい明日が来る・・・貧しくとも希望で胸をいっぱいにふくらませながら送っていた少年時代でありました。
 そして、中学から高校に差しかかる頃は、まさに激烈な競争社会を経験し、東京の大学に進学、寮での生活を通して、稚拙ながらも初めて社会と向かい合うことになりました。
 時はまさに「70年安保」の時、時代から〝君たちはどう生きるか〟・・・と問われながら過ごした4年間…、そして卒業後の進路を、親の反対を押し切って映画の道に進めたのは、愚直なまでに誠実に生きようとした東北人の魂の故だったのかも知れません。
 それ以降、東京の共同映画からの独立と、シネマとうほくのスタートもありながら、映画の製作と上映を通した、人の世の幸せを願って歩み続けてきたのでした。
 こんな私たちに大きな危機が訪れたのは、7年前の東日本大震災の時でした。
 あの日の直前に完成していた「エクレール~お菓子放浪記」は、宮城での上映の道を断たれ、もはや会社を支えることは不可能とも思われながら、耐えに耐えながらここまで歩んで来られた要因は、あの時全国のたくさんの方々から頂戴した“人の情け”であり、ともするとくずれそうになる私を支えた家族の暖かい手でもありました。
 そして、70歳を迎えて、「君の笑顔に会いたくて」が全国展開をし、「あの日のオルガン」が完成を迎えました。
 まだ、前線で、しばらくは・・・そんなお声に支えられながら、古希から先に、まだ私の道は続いている様です。
 支えて下さった、たくさんの方々の願いに応えるためにも…。
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あの日のオルガン



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 仙台では又、いじめによると思われる男子中学2年生の自殺が報じられました。
 2014年、そして 2016年に続いて連続して発生した、何と3件目の中学生を巡る悲しい報道に言葉もない思いです。
 一体何が、年端もいかない少年たちを死に追いやるのか・・・。
 たった13年しか生きることの出来なかった、あまりにはかない命に胸が痛みます。
 やはり、現代の日本社会は、何かとても大切なものがゆがみ始めて来ているのではないかと思えるのです。
 社会のさまざまな負の要因が大きな影となって、子どもたちの上に投げかけられているのではないかと思うのです。
 人と人とが互いに信じ合い、支え合う地域社会ではなく、強大な力のあるものにひたすら従順に従い、口をつぐみ、そしてそこからドロップアウトした者を徹底的に排撃する思想・・・。
 命を守り、命を育む心ではなく、命を捨てよ・・・と教える教育勅語を今の時代に追認しようとする信じがたい言論。
 そして、近隣国の狂気に乗じて戦時体制をあおろうとする報道・・・。
私たちの行く道を、もう一度立ち止まって、そして冷静に見つめ直してみる必要があるのではないかと痛切に思えるのです。
一つの命を守ることの出来ない国に、果たして未来はあるのかとも・・・。
それでも自然は巡り、今は一年のうちでも最も華やかな時を迎えています。
満開の桜が散って、さわやかな5月の風が、新緑のやわらかな黄緑色の葉を揺らしています。
花々は一斉にその命を謳うように咲きそろい、全ての命が萌え出すこんな時に、あまりに短い命を自ら断った少年の悲しさに、私たちは寄り添って、そしてそこから学ぶべきものを見つけなければならないと思っています。
そんな、子どもたちの命が輝く未来を願って、1本の映画がここ宮城の地を舞台に生まれ様としている今だから・・・。
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新緑の仙台ケヤキ並木


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「エクレール・お菓子放浪記」の原作者 西村滋先生がお亡くなりになられてから、

早いもので4か月の時間が流れていました。

 西村先生は、ご家族との最後のお別れにあたって二つのご指示をなされていたそうです。

 一つは、ご遺体は献体として、医学の発展に寄与すること、そしてお葬式は行わないこと、でありました。

 しかしながら、先生とのお別れを望むお声は回りに大きく、関係者の方々は、後日「お別れの会」を行うことを決め、ご丁寧な準備が続けられてきました。そして昨日、静岡市で「西村滋さんをしのぶ会―ありがとうお月さん」と名付けられたお別れの会が開催されたのでした。

 静岡市内の会場に入った一室には、おやさしい笑みを浮かべた西村先生のお写真が飾られていました。

 そのお写真と向かい合った私の胸には先生との数々の思い出が・・・そして思わず涙が・・・。

 更に、会場に入るや、なつかしいお顔の数々・・・。

 西村先生が大切に育んでいらっしゃった“やさしさ”が会場をいっぱいに包んだ頃

“しのぶ会”は開会を告げました。

 冒頭の川勝知事の奥様のごあいさつ、静岡市長のごあいさつ、そして元NHK名アナウンサー山川さんのごあいさつ、お仕着せではない、心のこもった言葉でご挨拶はつづられ、改めて西村先生が91年の生涯をかけて語ろうとしたものが胸にしみこむ思いでもございました。

 そして夕刻、ご参加の方々と別れを惜しみながら会場を後にし、帰路についたのでした。

 西村先生が私たちに残した平和への願いをしっかりと胸に刻みながら・・・。
  

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 27日夜、京都の出張から戻り、翌日の準備のため事務所に寄りました。

 点灯した事務所の蛍光灯に浮かび上がる机の上に一枚のハガキ...。

 私に宛てた宛名の文字は、何と忘れもしない西村先生の直筆の文字!

 裏にはこんなご挨拶が...。



  生きる よろこびを

  食べさせていただきました

  みなさんの友情を おいしく頂きました

  ありがとう さようなら



 そして先生がお亡くなりになられた2016521日の日付が記されていました。

 自らの最後を知って、ここまでの気配りをされていた西村先生...。

 何と見事な、そして心やさしい旅立ちでありましたことか...。

 それにしても、大変なお体をおしてこのハガキをお書きになられた西村先生のお心を思い、涙があふれるのを抑えることは出来ませんでした。

 日本人の「劣化」が語られ、日々の信じがたい報道に晒されていた私に、まるで天国から送られてきた様なこのハガキは、最後の瞬間まで誠実に、そして必死に自らの道を歩み通した一人の男の見事な生き様を私に語ってくれたのでした。

 西村先生...短い間でしたが、差し伸べていただきました数々のやさしさ、本当にありがとうございました...。

 私はもうしばらくこの世で奮闘して見ようと思っています。

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西村先生の役を演じた吉井一肇くん



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2016年4月15・16日 河北新報

 414日夜、熊本県中央部を突然の震度7の揺れが襲いました。

 それ以降、地震は沈静化するどころか更に広域に拡大して、被害は甚大なものとなろうとしています。

 家屋が倒壊して、避難所での生活を余儀なくされた多くの方々の映像に、5年前の東北の姿を重ね、居てもたってもいられない思いにされているのは私だけではないと思うのです。

 自然の災害によって突然に訪れた受け入れがたい現状・・・それでも怒りの持って行き場もなく、今日一日の命をつなぐことだけに必死な被災地の方々に心からのご無事を祈る思いです。

 熊本市には、私たちの協同組合ジャパン・スローシネマ・ネットワークの加盟社のひとつ熊本映画センターがありました。

 震災直後のメールで当面のご無事は確認していましたが、その後の連続する揺れで果たして・・・。

 私たちシネマとうほくも5年前に経験しました。

 これまで私たちが展開して来た「東北での上映運動」は、あの日以降たちまちのうちに消えてなくなり、これと共に体力のない私たちの会社も経営的に「困難な状況に追いやられたことを・・・。

 これから熊本映画センターがたどるであろう道にもさぞかし多くの困難が立ちふさがることも心配せざるを得ないのです。

 こんな南の地から伝えられる「不幸」に、全国からこれを支えようとする声も大きく響き始めています。

 願わくは、こんなお声が揺れがおさまり、報道が落ち着いた後も継続して語られることを・・・。

 時間の経過がいかに残酷なものであるかを痛感している東北の私たちですから・・・。

 ともかく、一日も早い沈静化を・・・そして、被災地の方々が一日も早く、かつての日常を取り戻せることを・・・。


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 以前のブログでも触れました。

 昨年春、私たちシネマとうほくが思いを込めて製作した長編アニメーション「アテルイ」で、アテルイの盟友モレ役を見事に演じていただいた平野さんからお申し出がございました。


 ご自身が講師をされている大阪芸術大学声優科コースの卒業製作作品として、このアニメのシナリオをもとに朗読劇を製作したいと・・・。

 そして一年におよぶ製作が終了、先日その発表会がございました。

 平野さんからお招きを受けて参加のご返事を差し上げておりましたが、急に仕事の調整がつかなくなり、参加できないでおりましたところ、平野さんから全編のDVDが送られて来ました。

 拝見させていただき、正直感動致しました。

 何せ、演じているのは皆、大学を巣立とうとする20代前半の若者たち。

 役柄の設定上、いささかの無理を感じるところもございましたが、観ているうちにいつの間にかドラマの中に引き込まれ、ラストシーンに差し掛かるころには思わず涙・・・。

 私の胸にさわやかな感動を語って朗読劇はエンドを迎えたのでした。

 遡ること約1200年前、故郷の誇りと平和を願ってヤマトの大軍に立ち向かったアテルイと勇者たちの熱い思いは、若者たちの手で現代に見事に蘇ったのでした。

 時代の閉塞感が語られ、力の強いそして富めるものが、社会的な弱者を押しのけるかの如き現代社会・・・。

 そんな時代の中に今生きている若者たちは、この一連の製作と公演を通して何を学んだのでしょうか・・・。

 さわやかな感動と共に、彼ら彼女らのこれからの行く手の幸せを祈った一日でした。

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アテルイの盟友モレ



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 2016311日・・・生涯忘れることの出来ないあの日から5年の時間が流れ、そして又、この日が巡ってきました。

 この節目の日を私は、「ちえりとチェリー」の上映拡大に走り回る宮城県七ヶ宿町役場の前で迎えました。1446分・・・サイレンが鳴り、悲しい大惨禍で亡くなられた方々への黙祷が呼びかけられています。

 5年前のあの日私は東京に・・・絶望と向き会いながら一晩中まんじりともしないでテレビから流れる信じられない映像を見続けていました。

 明けて、翌日の風の強かった晴天の朝はしっかりと記憶しているのですが、その後10日経ってやっと仙台へ戻るまでの記憶のほとんどが飛んでしまっていることに気づかされたのです。

 「エクレール・お菓子放浪記」の東北公開を目前にしながら、それが全てついえてしまった私の精神状態は、いささか異常なものであったのかも知れないと思いおこしています。

 背中の筋肉はまるで鉄板の様に張り切り、そして精神的に不安定な私はよく泣いてもいたのでした。

 あれから5年…よくも頑張ってこれたものだと振り返りながら、そんな私たちを支えてくださった方々のやさしい手の感触を今でもありありと思いおこしております。

 そんな私の体験は、あの日被災した多くの方々と共通するものだったとも思えるのでしす。

 そして5年・・・被災地は山積する課題をいまだに数多く抱えながら、それでも確実に人の記憶からは遠い過去のものとなって行こうとしています。

 報道各社は、まるで一大イベントを報ずるかの如く、被災地から5年の報道を競う様にして流していますが、明日からはまるで何事も無かったかのような紙面と電波に戻るのだと思います。

 そして又、日一日と人の記憶からは遠いものとなってしまうのかも知れません。

 でも・・・やはりそれはダメなのだと思うのです。

 こんなにも沢山の人々の苦しみや悲しみを、たった5年でまるで何もなかった様に忘れ去ってしまったら・・・その先に私は、どうしても健やかな国の未来を描くことが出来ないのです。

 もう一度振り返ってほしいのです・・・この東北が向かい会っている沢山の悲しみを。

 そして、私たちは大きく声をあげて、この悲しみを発信し続けなければならないのだと思います。

 人と人とが心を通わせ、支えあう国の未来をつくりあげるために・・・。

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山陽新聞より

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毎日新聞より


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雪の泉ヶ岳


 私がまだ青年でありました頃、仲間たちと、そして時には一人で山を歩いて来ました。

 大きな大きな山々と向かい合って、必死の思いで歩を進め、たどり着いた頂上での憩いの時…。

 時にはやさしい、そして時には厳しい表情をみせる山は、その時々に私の心を支え、叱咤も与えてくれました。

 そんな山にも年を重ねるに従って足が遠のいていました。

 そして、年と共に筋力も落ちて来ていることにいささかの危機感も覚えた時、無理のない山に再度身を置く様になっていました。

 低山や里山を23時間かけて巡る山歩きは、仕事でクタクタになった私の心を大きく開放し、体だけではない心のリフレッシュにも大きな役割を果たして来ていました。

 そんな山歩きで一番通った山が泉ヶ岳、仙台市北部に位置し、標高1000m余の美しい山です。

 春、夏、秋…とそれぞれに異なる表情を見せる山を、時には山腹の周遊、そして時には頂上まで…、特に目標も決めずに数々のコースを歩いて来ました。

 そして冬…。

 今年、思い立って冬の泉ヶ岳にも行ってみようと思ったのは、いまだ衰えない好奇心のせいだったのかも知れません。

 そこで問題となったのは足元の装備。

 かつて使っていた山靴は、その後の私の足の変型で使用出来ず。

 無雪期用に新たに購入した山用の靴は、靴高が低くスパッツを付けられませんでした。

 えい!それならと、迷うことなく物置から引っ張り出して来た長靴をはいて雪の山に向かいました。

 やわらかな靴底の長靴は、雪面にステップを刻みにくく、ともすれば滑る足元に気を配りながらも、久しぶりの白一色の山のふところに抱かれて楽しい一時を過ごして来ました。

 それでも、時折会う人たちの装備は皆いかにも立派なもの…

60過ぎの年寄りが長靴をはいてヨレヨレのジャンパーを羽織って歩く姿は、まるで都会のホームレスが冬の山に迷い込んだ様な…。

それでも負けずに冬山遊びをして来た私でありました。

 いつかお金が溜まったらしっかりとした山靴を買いたい…、などと思いながら…。


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 早いもので今日から12(※1日に書いた文章です)、この時期になると同年代の方とお会いするといつの間にかこの話題に...。

“年々、時の流れが早くなったことを実感する...、いつの間にか又年末が巡って来た...”と。

 振り返ると子どもの頃、時間の流れはもっとゆるやかに流れていた様に思えるのです。

 夏休みを迎えこれから始まる未知の時間に胸を躍らせ、そして長い夏休みが終わった時、一回り成長したかの如き自分を実感したものでした。

 それなのに...。

 「好奇心をもって未知の世界と向かい合い、新たな経験が多いほど、時間の経過は長く感じる。」

 そんな説もあるそうです。

 そうだとしたらいつの間にか私は惰性で時間を空費していたのかも...。

 ともあれ一年の総決算の月、残された僅かな日々を精一杯に送って、来年はまさに数々の「未知との遭遇」を経験したいものです。


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