カテゴリ:旅と出会い( 28 )

 ここしばらく、「あの日のオルガン」全国上映のしくみづくりで東京出張が続いていました。
 幸い多くのご支援を得ることが出来、作品は完成し、二転三転しながらも全国公開の大筋がほぼ見えて来たので、「全国上映運動」づくりに久しぶりに関西を訪れました。
 昨日は、神戸、大阪で保育団体との話し合い、その後京都に移動して、今日の朝は久しぶりに京都で迎えました。
 いささか疲労気味の我が心身のリフレッシュも願って朝の散歩へ・・・1時間半程かけて京の町を巡りました。
 夏のあの殺人的な酷暑もどこへやら・・・空一面を彩る鱗雲は、京都の町への秋の訪れを告げていました。
 宿を出た足はいつの間にか東に向かい、歩きながら、ほどなく私の胸にはその目的が形になっていました。
久しぶりに清水寺を訪れようとする思いが。
 そして、清水寺の境内の一角に立つ「記念碑」を訪れる目的が・・・。

 1998年、いくつかの夢を描きながらシネマとうほくを設立した時、私の胸には一本の映画製作の夢が明らかな形となっていました。
 私を生み育てた岩手の地に刻まれた、北の誇りをこの映画を通して語ろうとする夢が・・・。
 思いを込めて製作に取り組んだ作品は、長編アニメーション「アテルイ」でした。
 今から1200余年前、東北の地は遠く縄文から受け継いだ文化を引きつぐ平和な、そして豊かな地でした。
 その頃、近畿に拠点を持った強大な国家ヤマトは、その版図を全国に拡げていました。
 そして、最後までヤマトの意図になびかなかった北の地を我がものとするため、強大な軍勢を送って来たのでした。
 北の民を「エミシ」とさげすみながら・・・。
 その不当な侵略に抗して、故郷の生活と誇りを守るために立ち上がった勇者達がいました。
 そして、その先頭に立ったのが、若き勇者アテルイでした。
 地の利を生かしたエミシの騎馬軍団は、圧倒的なヤマトの軍勢を相手に見事な戦いを続けましたが、その戦いは長期におよび、北の民をヤマトによって根絶やしにされることから守るため、アテルイはヤマトの指揮官坂上田村麻呂に降伏を申し出、盟友のモレ共々500騎で京に連行され、802年河内国杜山(現枚方市)で惨殺されたのでした。
 そんな北の勇者たちを顕彰しよう・・・そんな声が岩手を中心にあがったのは、アテルイ没1200年の記念の年のことでした。
 この年に、私たちのアニメ「アテルイ」は完成し、西の地には坂上田村麻呂が願主となって建立された清水寺の一角に、北の地の英雄を顕彰する碑が森貫主様の揮毫で除幕されたのでした。
 それ以降、京都を訪れた時間をぬっては、碑に手を合わせて来ていました。
 久しぶりに訪れた清水寺には、変わらずに「アテルイ・モレの碑」が秋の空を背景に北の誇りを語っていました。
 36年来の思いがかなって完成した「あの日のオルガン」の成功と、アテルイたちが命をかけて守ろうとした平和への願いを込めて、思わず両の手を合わせた京都の朝でした。
a0335202_11083461.jpg
京都の空を彩る鰯雲
a0335202_11085839.jpg
阿弖流為 母禮の碑



[PR]

 北海道紋別市・・・冬は流氷に覆われるオホーツク海に面した北の港町は、今桜の開花の時を迎えていました。

 3月に沖縄を訪れた時、那覇市は早咲きの桜で彩られていました。

 あれから2ヶ月をかけて、桜は日本列島を縦断した様です。

 「君の笑顔に会いたくて」はやっとその上映の動きを全国に展開し始めていました。

 そして、有難いことに北海道ではその動きに拍車がかかった様で、各地から上映のお声があがり、先週に引き続いての北海道出張となりました。

 ここ紋別は、ずい分以前に息子との思い出を刻んだ町でありました。

 数えれば今から24年前・・・我が息子が中学2年の年の夏休みに、思い立って北海道への自転車旅行を計画。

 フェリーで渡った苫小牧から稚内までの、7日間700kmにおよんだ旅の終盤に一泊したのがここ紋別でした。

 あの日、夕食に立ち寄った居酒屋のおやじさんは津軽出身の方・・・、東北仙台からの親子自転車旅行に大感激して下さり、やおら奥から三味線を出して津軽の歌の数々を披露・・・冷蔵庫からは、とっておきの〝トドの肉〟を出して私達に振る舞って下さったことを記憶しています。

 残念ながらこの店を見つけることは出来ませんでしたが、遠い思い出を振り返りながら、港町の小さな居酒屋のカウンターに身を委ねたのでした。

 あの日、中2の息子も今や1児の父親になり、私は年を重ね老人の域に足を踏み入れましたが、目の前に拡がる仕事は、私の旅の日々を更に前に向けている様です。

 明日は遠軽から士別、そして名寄・・・、桜の桃色と、淡い黄緑色の新緑が混じり合った鮮やかな北の大地を、「君の笑顔に会いたくて」を携えて、駆けて見ようと思うのです。


a0335202_13224709.jpg
紋別の高台から望む朝のオホーツク海

[PR]

 寒さにふるえた北海道から一転、今日は久し振りに南国沖縄を訪れました。

 空港から降りたったこの地は・・・暖かい!・・・。

 街は、早咲きのヒガン桜の桃色に彩られ、南の地は春からもはや初夏の風情でした。

 小さな国日本ではありますが、南北に連なる弧は、見事に季節の変化を語っていることを身をもって実感させられました。

 「君の笑顔に会いたくて」で訪れた那覇保護観察所では、所長様をはじめ保護司の方々が私をお迎え下さり、この作品の趣旨に幸い皆様ご賛同いただき、県内の関係者に向けた先ずもっての試写会をお約束して下さいました。

 その後お会いした うるま市の方は、原作者大沼さんからご紹介いただいた方、大沼さんのもとをお訪ねし、彼女が展開している自立支援ホーム「ロージーハウス」から学びながら、4月にうるま市に子どもたちのホームの立ち上げの準備をされている方。

 子どもたちの輝く未来を語るこの映画に熱くご賛同いただき、ホーム立ち上げにつなげた上映をこれもお約束して下さいました。

 又、今私が抱えるもう一本の作品「あの日のオルガン」では、沖縄の保育士

の方々15人がお集まりいただき、この企画に寄せる私達の思いを胸を熱くして聞いて下さいました。

 あの戦火の時代に、日本の領土で唯一の地上戦を経験し、数多くの民間人の貴い犠牲を強いられ、そして戦後は、日本にある米軍基地の75%が集中する沖縄・・・。

 この悲しい歴史と現実を抱える沖縄に、それなればこそ「命」「と「平和」を願う心が熱く県民の心に息づいていることをしっかりと心に刻んで、一人那覇の居酒屋で泡盛を傾けたのでした。

 今は、南の地沖縄に吹く春の風が、まもなく北の地にも届けられることを願って・・・。

a0335202_16133306.jpg

沖縄の春を彩るヒガンザクラ

a0335202_16134200.jpg

那覇の街並み


[PR]

 立春も過ぎて暦の上では春を迎えたと言うのに、日本列島には寒気団が居すわり、いつになく寒さの厳しい毎日が続いています。

 そんな折、更なる寒さを求めるように北海道を訪れていました。
 「君の笑顔に会いたくて」の全国上映の動きが始まっていましたが、この動きは北海道にも拡がり、すでに道内何ヶ所かでの上映準備がスタートし、この対応での北海道訪問でした。

 昨日は札幌から帯広、そして今日は釧路・・・とにかく寒い!
 美川憲一の「釧路の夜」に歌われる幣舞橋のかかる釧路川は、川面がすっかり凍結し、一面に氷の蓮の葉が拡がり、街の中はすっかり凍りついて道はさながらスケート場状態・・・。
 北の街は氷の街となっていました。
 それでも、開かれた試写会とその後の上映実行委員会には多くの方々が足を運んで下さり、映画の感動に頬を染めながら、ご参加者全員の思いで釧路での上映運動は、その成功に向けてスタートを切ることになったのでした。
 スローシネマ方式・・・つくずく手間のかかる上映運動だと思いますが、直接お訪ねし、作品に寄せる思いを語り、上映成功に向けた共感の輪をつなぐことが、上映成功への唯一の道であることを改めて実感して、札幌に向かう夜汽車に寒さにふるえる我が身をゆだねたのでした。
 明日は、訪れる石狩市での上映を必ずや拓こうと心に熱く願いながら・・・。

a0335202_10495436.jpg

凍結の釧路川


[PR]

 年も押し詰まり、今年も残すところあと5日となってしまいました。

 浦和駅前の喫茶店で手帳をくくりながらこの一年を振り返っていますが、時の流れのあまりの早さに改めて驚かされています。

 こんな早さで時が過ぎて行ったなら…明年70歳を迎えることになる私にとって、この時の流れの早さは、いささか残酷なものとしても実感させられているのです。

 昨日は、長野市保護司会をお訪ねして参りました。

 長野市保護司会があるサポートセンターは、善光寺の裏手にありまして、久し振りに善光寺を訪ねることにもなりました。

 善光寺・・・日本で仏教が諸派に分かれる以前からの寺院で、宗派の別なく宿願が可能な霊場として位置づけられてきた天下の名刹です。

 江戸時代には「一生に一度は善光寺詣り」とも言われ、時代をこえて庶民の信仰を集めて来ました。

 長野市の中心部に位置し、本堂に続く長い参道には数々の店が軒を連ね、長野県の一大観光スポットとしても全国にその名を知られて来ました。

 以前、「じんじん」の全国配給を担当していた時はJSN発足の直前でした。

 ご賛同のいくつかの配給社と配給ネットワークをつくり全国配給に取組んだのでしたが、このネットから外れた空白県がいくつかありました。

 その一つが長野県でした。

 致し方なく、この空白県は私が担当し配給にあたることになりました。

 幸い、長野県ではこの作品を熱く受け止めていただき、上映の輪は県内に大きく拡がって行き、それと平行して私も幾度も長野県を訪れることになりました。

 そして、長野市に宿泊するときは、格段の予定がなければ、早朝に起きて善光寺へお参りをすることがいつの間にか習慣になっていました。

 早朝の、まだ人の姿もほとんど見られない時間帯に、参道を歩いて善光寺をお参りする時、不思議に心安らぐ思いにさせられたものでした。

久し振りに訪れた年末の善光寺は、境内には珍しく人の姿も少なく、昨日まで荒れていた天候も一転して晴天となり、とてもおだやかな姿で私に接して下さいました。

 両の手を合わせ、仏様に今年一年の無事を報告し、来年の一層の努力を誓ったのでした。

 明年は、あの大震災から数えて7年目を迎える年ともなります。

 来たる年が、皆様方にとっても、そして歯を食いしばってあの大惨禍からの再建の努力を重ねて来たシネマとうほくにとっても、幸多い年となることを願わずには居られません。

 本年の数々のご助力を心から感謝致します。

 来年もよろしくお願い申し上げます。


a0335202_12481013.jpg
年末の穏やかな善光寺
a0335202_12475545.jpg
参道には人の姿もまばら




[PR]

 早いもので今日を過ぎると季節はもはや師走・・・残された僅かな時間に追いたてられる様にして全国を巡る旅を続けていました。

 先週は、広島、岡山、大阪、京都、金沢と西日本を回り、昨日は青森県三沢から盛岡を・・・そして今日は、信州を訪れていました。
 長野県佐久市の市議会議員の方から「君の笑顔に会いたくて」上映についてのご希望が届けられ、その方とお会いするべく、小諸から小海線に乗って佐久市を訪れたのでした。
 車窓から望む冬枯れの野に、取り残された柿の実が、あざやかな橙色を飾っています。
 小海線・・・信州小諸から甲州小淵沢までの79kmを結ぶ高原鉄道・・・路線の西には広い裾野を拡げた八ヶ岳が望まれ、おだやかな山里の風情が拡がる心なごむ鉄道です。
 小海線に乗ると、不思議になつかしい思いにさせられるのは、学生時代に八ヶ岳に幾度も登って来たからなのかも知れません。
 大学一年の夏、秋田県出身の友人と初めての登山を決意して訪れたのが八ヶ岳でした。
 それまでは、近辺の里山しか知らなかった私にとって、3000m近いこの山は、いささかの冒険でもありましたが、23日の山旅で最高峰赤岳の頂上に立ったときの達成感は、その後の私を、山登りにいざなう大きな契機になったのでした。
 東京から比較的近い距離にあるこの山には、その後も幾度か、季節も問わず訪れたのでした。
 あれからもはや50年近い時間が流れていました・・・。
 年を重ねた私は、それでも未だに、より高い高みをめざして登り続けているのかも知れません・・・人の世の幸せを願って・・・。
 久し振りの小海線の、かつてのそれとは違って装いを新たにした車両に身をゆだねて、しばらくの間心安らかに来し方を振り返ったのでした・・・。
 もうしばらくは登り続けて見ようと自らに誓って・・・。
a0335202_13564713.jpg

小海線のホーム


[PR]

 名取市閖上・・・宮城県仙台市の南部、名取川が太平洋に流れ込む河口にひろがる古くからの港町です。

一流のお寿司屋さんでも珍重される赤貝の産地としても全国に有名な町。

そして、あの日以降、この町は悲しみの地としても知られることとなってしまったのでした・・・。

2011311日、巨大な波の壁は平和だったこの港町を襲いました。

最大波高は、9.09mにおよび、964名のかけがえのない命が一瞬のうちに奪い去られて行きました。

そして、その大惨禍の直後、前回ブログに紹介した大沼えりこさんは、この地に立っていたのでした。

とても この世のものとは思えない地獄絵図の中に・・・。

あれから5年をこえる時間が流れたというのに、彼女の瞳に焼きついたあの日の映像は、それを思いおこす度に彼女の胸をしめつけ、言葉にならない思いは彼女を苦しめているのです。

私たちは、映画「君の笑顔の会いたくて」製作の主要な舞台を名取市に設定したいと思いました。

そして、シナリオ完成に向け、原作者、大沼さんも交えて幾度かの話し合いを持ちました。

その中で課題となったのは、東日本大震災の大惨禍に踏み込んでこの作品を語るか・・・とのポイントでした。

 この映画の基本テーマは「更生保護の心」を語ろうとするもので、あの日の出来事にあまり深く踏み込むことで、このテーマが弱くなることへの危惧も感じながら私たちの論議は幾度にもおよんだのでした。

しかしながら、あれから5年を経てもいまだに人々の胸に残る深い心の傷、そして閖上の町に立った時の、いまだ復興には程遠い現実を見た時、決してこの現実から目をそむけてはならない・・・・・そんな結論になったのでした。

命を奪った閖上の海と、今もう一度命を誓おうとする閖上の海・・・

 このドラマは閖上の海を一つのキイに語られることになりそうです。

a0335202_15350374.jpg

JSN総会の後、閖上に行って来ました


a0335202_15353162.jpg

最大波高を示す慰霊碑の前で


[PR]
 久し振りに晴れ上がった空のもと、車で青森に向かっています。

 昨日、北の地は今年一番の冷え込みとのこと、車窓からは初冠雪が報じられた岩手山が、秋の空を背景にすっきりとしたその姿を見せています。

 岩手山・・・この山は、私にとって特別な感慨を思い起こさせる山なのです。

 私の故郷、盛岡市のどこからでも望むことの出来る、岩手をまさに象徴する美しい姿の山で、古くから多くの文学や詩歌にもその姿をうたわれていました。

 啄木や賢治もその作品の中にうたったこの山の姿は、それに触れた岩手県人に、故郷の包み込む様なやさしさと、遠く縄文の彼方につながる自然の巨きさを語ってくれるのかも知れません。

 私もこの山に吸い寄せられる様にして、若い頃幾度にもわたって登ってきました。

 初めて登った頂上から望んだ、すっきりと晴れ上がった風景の清々しさ・・・。

 友と登って、下山した温泉に伸ばした足の解放感・・・。

 そして、人生に行き詰って一人登った私を受け止めた、晩秋の岩手山のやさしさ・・。

 この山は、その都度都度に私を育て、見守って来てくれたのでした。

 あの頃から数えるなら、ずい分の時間が流れてゆきました。

 そして、年を重ねた私は、それでもまだあの頃の思いをカバンに詰めて、時代と向かいあいながら苦闘しています。

 故郷のおおきな、そしてやさしき数々のものに支えられながら・・・。

 青森までは、赤く色づいたナナカマドの道をたどってまだしばらくのドライブです。


a0335202_09443999.jpg
 秋空に映える岩手山


[PR]

 私たちが人を評価しようとするとき、いくつかの指標を持ち出し、それに照らしてその評価を下しています。

 知性や情熱であったり、指導力や資力さえもがその評価の指標に使われています。

 改めて振り返ってみて、まこと不思議な人としての力を持った方と一本の映画の仕事を共にしていることに気づかされたのでした。

 フロンティアワークスのO氏・・・今私たちが全国展開に取り組んでいる「ちえりとチェリー」のプロデューサーがその人です。

 Oさんと初めてお会いしたのは2年前に遡ります。

 「ちえりとチェリー」の全国配給のご要請を携えて彼は、フロンティアワークスの社長と一緒に私の前に現れました。

 その時の素直な印象は“ちょっとオタクっぽい、そしていささか頼りなさそうなお方・・・”失礼ながらこんな第一印象を持ったことを覚えています。

 しかしながらそんな印象は、ご一緒の仕事が始まるや一変、これはなかなかの方でいらっしゃること気づかされたのでした。

 ふっくらとした頬に優しそうな笑みをうかべ、細い目を更に細くして彼は私の前に立ちます。

語られる言葉はあくまでもおだやかで、決して一方的に自説を主張せず、相手の話を注意深く聞いているのです。

 そして、Oさんと向かい合っているうちに妙に心がおだやかになり、いつの間にか彼の考えに寄り添ってしまっている自分に気づかされるのです。

 今までお会いしたこのことない、まことに不思議な人としてのお力を持った・・・Oさんの本当の姿はこんな方だったのです。

 そして私がOさんについてのこんな評価をする時の指標として、これも気づかされたのが「誠実さ」と「ねばり」だったのでした。

一見地味な、それでも人としての確かな力となり得るこの二つの特性を今後、自らにも課してみたいと思っています。


a0335202_13554651.jpg
Oさんはチェブラーシカに似ている…かも


[PR]

a0335202_12130510.jpg
全てが奪われた大槌町


 「ちえりとチェリー」の被災地での上映準備もいよいよ佳境に入り、先日は岩手県釜石市、大槌町、山田町を巡って参りました。

 震災以降この地を訪れるのはこれが初めてのこと、いささかの緊張を胸にしながらの三陸沿岸への旅でした。

 このあたりは以前は、何度も何度も車で通った道...しかしながら車窓から流れる懐かしい風景は釜石の町に入るや一変...そして釜石から峠を超えて隣町大槌町を一望に出来る高台に立ち、そこから大槌のかつての市街地に入ったときはまさに息をのむ思いでした。

 海に向かってひらけた、かつての大槌町は既にその姿を消し、全く何もなくなってしまった平坦な大地の上を、かさ上げ工事のダンプカーが土ぼこりを巻き上げながら走るだけ...。

 町には人の姿もなく、あの人のにぎわいに溢れていた大槌町はその姿を一変させていました。

 町の中心部に唯一残る旧役場庁舎の前に立ち、改めて5年前の大惨禍の凄まじさにただただ両の手を合わせるばかりでした。

 あの日から間もなく5年...5年経ってもこの姿とは...。

 こんな変わり果てた町の姿に日々接する町民の思いに心を寄せた時、もはや我慢も限界を超え、町での再起をあきらめ、他の地に移り住む選択をした町民の思いが胸に迫って来る思いでした。

 こんな膨大な、そして長期にわたるかさ上げ工事ではなく、住民の日常生活に寄り添った別の町再建の道があったのではないのか...。

 そんな思いにもさせられたのでした。

 そして訪れた町役場、お忙しいお時間を割いてご面会下してさった平野町長さんは、満面の笑顔で私たちを迎えて下さいました。 

 実は、平野町長さんとは、平野さんが町職員であった頃からのお付き合い。

 映画の上映を通した町の活性化と子供たちの健やかな未来にご賛同いただき、これまでもいくつかの映画の上映に取り組んで下さった、平野さんはそんな好漢でした。

 震災以降の町の未来に、止むにやまれぬ思いで町長選に立候補し幸いご当選、一番大切な時の町政の舵取り役となったのでした。

 思わず話はあの日あの時のことに...あの時は大槌町の幹部職員が集って会議中、この中に平野さんもおいででした。

 迫り来る津波が目には見えていたのだが、いくら思い返してもあの時の音を思い起こせない...全く音の無い世界に立ち止まっていたのだと...。

 当時の町長さんを始め、貴重な幹部職員の何人かの命は奪われて行きましたが、幸い平野さんは自らの命を拾うことになったのでした。

 あの当時のことを振り返るなら今は、仲間も、そして復興に向けて一生懸命に努力する職員もいる...幸せなことですよ...、と語る平野町長さんの言葉に思わず胸が熱くなったのでした。

そして、私たちの語る「ちえりとチェリー」大槌町上映についてもその実現を約して下さいました。

 5年を経てなお、まだこの現状にある被災地への思いと、そこへの支援の手を更に重ねなければならない...そんな思いを強くした岩手県沿岸の一日でした。


a0335202_12130583.jpg
旧大槌庁舎



[PR]