カテゴリ:映画( 66 )

 「あの日のオルガン」の原作本が、7月20日朝日新聞出版から再刊されました。
 このご本も、たくさんのドラマを紡ぎながらここまでたどり着いたのです。
 時は36年前、この史実の映画化の企画が持ち上がった時にさかのぼります。
 「疎開保育園」の歴史は、それまで色々な学習会等で断片的な報告はありましたが、まとまった記録がございませんでした。
 歴史の事実であるならば、しっかりとその史実をたどって一冊の本としてまとめ上げてから、映画化の企画を進めた方が良いだろう…とのことになり、そのご本の仕事を託されたのが、原作者となった久保つぎこさんでした。
 久保さんは、このご本が、ご本人がお書きになる2冊目のご本だったこともあり、託された仕事の大きさにいささかのたじろぎはありながらも、真正面からこのお仕事に向かって下さいました。
 そして、それから旺盛な取材活動を始められたのでした。
 当時はまだ、疎開保育園の保母さんたちが皆お元気で、久保さんはこの方々にも可愛がられながら、取材の毎日はその日を数えて行ったのでした。
 そして、無事出版の日を迎えたのは、それから何と3年後のことでした。
 この日は、まさに久保さんの執念が実った日でもありました。
 しかし…残念ながら、当時この映画化企画が実現することはありませんでした。
 それから、長い長い時間が経っていました。
 私が再度映画化の企画を思い立って、久保さんのご自宅をお訪ねしたのは2014年3月の事でした。
 久保さんは、そのお年を感じさせない、情熱いっぱいの風情で私の前に立って下さり、映画化の再企画を満面の笑顔で喜んで下さいました。
 そして、それからも数々の山と谷を経験しながら、それでもこの企画の完成を願う多くの方々に支えられて、この作品は先月無事に誕生の日を迎えたのでした。
 初号試写が終わった後、久保さんが私に見せて下さった笑顔にホッと胸をなでおろしたものでした。
 そして、久保さんの絶版となっていた原作は、幸い朝日新聞出版の方々のお目にとまり、7月20日新たな装いで再度、出版となったのでした。
 子どもたちの健やかな、そして平和な未来を願う、久保さんの熱い願いが結晶して…。
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原作「あの日のオルガン」


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by cinema-tohoku | 2018-07-20 17:20 | 映画 | Comments(0)

 625日、東京五反田のイマジカ第1試写室で、映画「あの日のオルガン」初号試写会が開かれ、私の胸に36年にわたってあたため続けて来た企画は、無事この世に生を授かりました。
 初号試写は本来、スタッフの最終チェックの試写ですが、この日はこの映画の製作に欠くことの出来なかった「市民プロデューサー」はじめ関りの深い方々もお招きして、にぎやかな誕生の日となりました。
 振り返って見れば、ここまでの道の長かったこと・・・。
 36年前、私が以前勤務していた共同映画で、この企画は生まれました。
 久保さんにお願いして3年かけて原作本も出版され、いよいよ、と思われましたが、残念なことに諸般の事情で実現には至りませんでした。
 私は当時、子どもたちを保育所に通わせていた父親でありました。
 子どもの命と向かい合ったこの製作企画には、大きな感動を覚え、製作断念の決定をとても残念な思いで受け止めました。
 それ以降、この企画は私の胸の中にその位置を占めることになりました。
 〝いつの日にか…〟そんな願いとなって。
 そんな長い夢を実現へと駆り立てたのは、今の社会の現状でした。
 子どもたちの健やかな成長に赤信号が灯り、子どもの命がこんなにも軽くあしらわれた時代は戦後なかったのではないかと思っていました。
 そんな現代社会に、あの戦火の時代に、それでも子どもの命を守り抜いた若き保母たちの史実は、大きな感動と共にかけがえのないものを語ると思ったのでした。
 こんな思いが、企画の実現へと私の背を押したのでした。
 そして、この日の誕生を支えて下さったのが、「市民プロデューサー」の方々でした。
 今、この企画が語るべきものにご賛同いただき、
100万円のご出資で映画製作を支えて下さった心優しき方々は、この日までに70人を数えるに至りました。
 試写室のシートに座って、スクリーンと向かい合った時、市民プロデューサーのお願いに全国を回った折に、お会いした方々のお顔が頭をよぎり、思わず胸が熱くなるのを覚えたのでした。
 そしてスクリーンに映し出された映画…。
 ドラマが進むにつれ、流れる涙はスクリーンを曇らせ、エンドが打たれた時、深い安堵の思いで、私の胸はいっぱいになっていました。
 〝子どもたちの命と平和〟かけがえのないものを、今生まれたこの作品は見事に語った様です。


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by cinema-tohoku | 2018-07-09 16:17 | 映画 | Comments(0)
 映画「あの日のオルガン」に描かれる、日本で初めて保育所を疎開させて53名の子どもたちの命を守ったのは、戸越保育所でした。
 東京品川区にあったこの保育所は、まさにドラマティックな成り立ちで生まれた保育所でした。
 ここには若い二人の男女が登場します。
 一人は東大経済学部の学生だった大村英之助さん、そしてもうお一人は都バスの車掌だった鈴子さんです。
 このお二人は当時の社会運動に目覚め、その中で巡り会い、そして結婚をしました。
 二人がこれから歩む道を探っていた時、子どもが授かり、この育児を通して、いつの間にか二人は、子どもたちの命を育む保育所をつくって見たい…そんな夢を描く様になりました。
 しかしながら貧しかった二人にはとても手の届かない夢かと思われましたが、英之助さんのお父様のご援助で、この夢は急速に実現に向かって行ったのでした。
 英之助さんのお父様は、当時の満鉄総裁をおつとめになられていました。
 我が息子は社会運動に目覚めた、いわゆる〝グレた息子〟でしたが、鈴子さんの夢には賛同して応援の手を差しのべてくれたのでした。
 そして、1939年、若い二人の夢を語る戸越保育所は開園したのでした。
 こんな足跡をたどって生まれた戸越保育所は、とても自由な風が吹く保育所でした。
 保育所の主任保母となった畑谷光代さんがこんなことを語っています〝とにかく自由な保育所だった…。新任の保母がベテラン保母の前でも臆することなく意見が言える…。保育をすることが楽しくて楽しくて…。〟
 しかしほどなく、この自由な保育所に暗い影が差して来ることになります。
 戦争が困難になるにつれ、この保育所に向けた当局の目は日増しに厳しいものとなって行きました。
 若い二人は深刻な議論を交わしました。〝このままでは保育所の存続が危ぶまれる…。〟
 そして二人は保育所を残すため、この保育所の経営を他の団体に譲り渡すことを決意したのでした。
 若い二人からこの保育所の経営を引き受けたのは、恩賜財団母子愛育会でした。
 この財団は、現天皇陛下のご誕生を記念して昭和8年創立された財団でした。
 当時の国民生活は極めて困難な状況に追い込まれて、子どもと母親の保健はほとんど顧みられない状況にありました。
 こんな時代に、母子の健全なる成長を願って活動してきた財団でした。
 そして迎えた1944年、財団と戸越保育所の保母たちは、疎開保育を決意したのでした。
 戦火から子どもたちの命を守る決意を込めて…。

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by cinema-tohoku | 2018-07-02 15:25 | 映画 | Comments(0)
 間もなく完成を迎える「あの日のオルガン」を、全国に拡がる<子どもの命と平和>を語る上映運動にするべく、各都道府県毎の運動づくりを願っての旅が始まっていました。
 昨日は福岡で県組織立ち上げのための相談会が、そして今日は熊本での話し合いに参加して、その夜は長崎へ・・・。
 長崎県では、この上映運動スタートの第一歩として、<「あの日のオルガン」を応援する長崎のつどい>を準備して私を迎えて下さいました。
 私も、この作品の市民プロデュ―サーの拡大を願って、これまでにずい分各地を巡って多くの方々とお会いして参りましたが、この映画に描かれる「疎開保育」の史実については、ほとんど知られていなかったことを実感していました。
 長崎では、全県に拡がる上映運動を展開するにあたって、先ずはこの貴重な史実を知っていただくことから、その第一歩を踏み出そうと計画された、この夜の会でした。
 準備されたこの会は、ご多忙のお時間を調整してご参加いただいた、何と40名に上る方々を会場にお迎えして開会となりました。
 会の第一部は、疎開前の戸越保育所の保育の姿を描いた記録映画「ある保母の記録」の上映… 戦争の遂行に狂奔していたあの時代に展開された、子どもたちと向かい合った保育の姿に、そしてそこからにじみ出る製作者の平和への願いは参加者の胸を打ったのでした。
 そして、第二部はご指名されて、私のこの作品に寄せる思いと、疎開保育の歴史にしばしお耳を傾けていただきました。
あの困難だった戦火の時代に、子どもたちと向かい合って、その命を守った若き保母たちの姿は、ご参加者の胸を打ち、長崎の夜は更けて行ったのでした。
 それにしても昨今の社会状況・・・たった五年しか生きることの出来なかった幼い女の子の命…、世間では公然と〝嘘〟や人への野蛮なののしりの言葉が語られ、拝金主義がまかり通る社会…。
 小説家の高村薫氏が〝まるで文明社会の終焉のような・・・〟と語るこの時代に、この作品は「子どもの命と平和」を願って生まれようとしています。
 その重大な役割を実感させもした長崎の夜でした。


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「あの日のオルガン」を応援する長崎の集い

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長崎港の朝


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by cinema-tohoku | 2018-06-28 11:01 | 映画 | Comments(0)
 310日・・・73年前の東京大空襲の日、311日・・・7年前の東日本大震災の日・・・。
 平和と命に関って決して忘れてはならないこの両日に、「あの日のオルガン」の製作上映運動の成功に向けた第一歩が、撮影地京都の地に確実に刻まれました。

 市民プロデューサー…製作費の不足する分を、ご賛同の方々の一口100万円のご出資で補おうとするだけでなく、この製作上映運動を、この方々と手を携えた運動として全国に向けて展開したい…。

 そんな願いを込めて、この募集運動は始められました、そしてその目標は64口…。

 310日に開催が決まった、市民プロデューサーが一同に会する「市民プロデューサー会議」までに、この目標を達成するべく、募集の運動は全国に展開されて行きました。

 そして、こんな私たちの願いに、多くの方々が熱い思いで応えて下さいました。

   子どもの命と平和を語るこの映画に賛同して、真っ先に手を重ねてくれた保育運動の組織の方々…。

   子どもの命と向かい合う保育の原点にご賛同いただき、この運動にお加わりいただいた民間保育所の役員の方々…。

   
一人では無理でも、多くの方々との共同の運動として、出資金募集運動を地域に展開し、見事にこれを達成して下さった鹿沼や蓮田の方々…。

   更には、この映画にご賛同いただき、この出資に応えて下さった、人、人、人…。

 まさに多彩な方々が、この運動にご参加いただき、310日までに重ねられた口数は見事に目標の64口となって、この会議は開催されたのでした。

 当日は、北海道から九州まで・・・全国からご参加の62名の方々が、会場となった京都華頂大学の大講義室をいっぱいに埋め、全国上映運動への第一歩は京都の地で刻まれたのでした。

 そして、その夜に開かれた「交流会」では、ご参加のほとんどの方々からのご発言があり、笑いあり、そして感動の涙も交えながら、京都の夜は更けて行きました。


 明けて翌日は、撮影中の松竹京都撮影所の見学に、90名程の方々がご参加、撮影所内につくられた、疎開先となった妙楽寺の荒れ寺セットの見事な美術の技に感動・・・  二日間におよんだ運動第一歩の全ての予定は終了となったのでした。
 子どもの命と平和・・・今の日本社会にかけがえのないものとなっているこの願いを、一本の映画の製作上映運動を通して語ろうとする思いは、その成功に向けて見事な第一歩を前に向けて踏み出したのです。

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会場を一杯にした会議

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撮影所見学


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by cinema-tohoku | 2018-04-02 14:26 | 映画 | Comments(0)

 私の胸の中で36年にわたって あたため続けて来た一本の映画がいよいよクランクインの朝を迎えました。

 「あの日のオルガン」・・・、あの戦火の時代に子どもたちの命を守った若き保母たちを描くこの作品は、心配された天候も晴れ上がった31日午前9時、松竹京都撮影所につくられた、疎開先の設定の妙楽寺に響く平松監督の高らかな〝ヨーイ、ハイ!〟のかけ声で船出をすることとなったのでした。

撮影初日のシーンは、疎開先に決まった荒れ寺の掃除に若い保母たちが訪れる設定のシーン。

松竹撮影所の中につくられたのは、それにしても見事なまでの荒れ寺・・・。

寺の本堂はまるで廃墟、そこここに、くもの巣が張り、須弥檀はまるでガラクタ置き場と化し・・・こんなところで子どもたちが数ヶ月に及ぶ生活を送ることなど、到底想像すら出来ない、見事な美術スタッフの技でありました。

そして、それとはまさに対極に位置する様な、若い保母役の女性たちのまぶしい程の若さが際立つ初日の撮影でした。


 それにしても、ここにたどり着くまでの、長い長い時間・・・。

 そして、この日を迎えるまでに差し出された、全国多くの方々の熱いご支援の数々・・・。

 これまでの作品のクランクインの時とは異なる思いが胸をよぎり、思わず目頭を熱くした私でありました。

 それでも この日は、やっとたどり着いたスタートライン。

 これから一ヶ月余にわたる撮影、そして編集から完成、更には来年2月から始まる全国公開・・・。

 この先にも数々の障害が待ち受けることを予想しながら、ともかくもスタートラインに着いたことを祝うべく、JSN加盟社のK氏とささやかな祝の盃を合わせたのでした。

 「子どもの命と平和」を願うお声が、この映画の回りに大きく大きく育っていくことを願って・・・。

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子どもの命を守った「若き保母たち」・・・


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by cinema-tohoku | 2018-03-22 14:28 | 映画 | Comments(0)

 「あの日のオルガン」市民プロデューサーの輪が日増しに大きく拡がっていました。

全国の多彩な方々が熱い思いで私たちの手に、その手を重ねて下さいました。

そのほとんどの方々とお会いして参りましたが、改めてこの作品が今日語るべき意義の大きさも実感していました。

それにしても映画です。
 完成した作品が、この方々の思いにお応え出来るものにならなければ・・・そんな思いにさせられていた時、このブログでもご紹介した市民プロデューサー第一号、青森県十和田市のTさんからお送りしたシナリオへのご感想が寄せられました。


「あの日のオルガン」決定稿読ませていただきました。久し振りにシナリオというものを読んだので、最初はト書きでイメージをふくらませるのに難儀しましたが、終盤東京大空襲あたりから引き込まれ、ついというか、不覚にもというか、涙があふれ出て止まりませんでした。映像になれば、オルガンの物哀しいノスタルジックな音色が、戦争で最も悲惨な犠牲となる幼児(子どもたち)の笑顔に重なり、感動を生み出すでしょう。子どもたちの笑顔が可愛いければ可愛いほど悲惨な戦争を浮き彫りにするでしょう。

個人的には「みんな我が子」のようなエネルギッシュなラストが欲しいと思いましたがそれでも、滂沱の涙の自分に驚いています。

今の映画界では大ヒットという訳にはいかないテーマではありますが、「母べい」「小さなおうち」など山田洋次作品を書いてきた平松監督の、日本の良心を見た想いでした。

 こんな映画として完成の日を迎えたいものです。



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by cinema-tohoku | 2018-03-12 09:52 | 映画 | Comments(0)
 「あの日のオルガン」に描かれる戸越保育所が、保育所の地方への疎開を決定してその準備に入った時、目の前に横たわる大きなハードルが、疎開地の問題でした。

 何せ、下は3才からの50名をこえるこどもたちの生活の場、そして子どもたちの命をつなぐ食料供給の課題も解決を迫られる大きな問題でした。

 この窮状に応えて、生活の場を提供して下さり、食料支援体制までつくって、東京の子どもたちの命を受け止めたのが埼玉県平野村(現蓮田市)の方々でした。

 この心やさしき平野村民に支えられて、疎開保育園は一人の子どもの命も失うことなく、平和な時代に子どもたちを送り出すことが出来たのでした。

 そして、あの日から73年・・・子どもたちの命を守った平野村民のやさしき心は、一本の映画となって世に出ようとしているのです。

 「あの日のオルガン」を支える市民プロデューサーの輪が、一歩ずつそして確実に全国に大きく拡がって来ていました。

 その輪が拡がる中で、だんだんと私の胸の中に大きな位置を占めるようになってきた思いがございました。

 この史実にとって欠くことの出来ない地、蓮田市民の方々にも市民プロデューサーの輪にお加わりいただき、共に全国上映への道を歩むことが出来ないか・・・、この地のご参加を除いては、この全国に拡がる製作運動は画竜点睛を欠くことに、なるのではないか・・・、そんな思いが日増しに大きくなっていたのでした。

 幸い、こんな私の願いは蓮田市民のもとに届き、先日先ずもってこの映画の企画を聞いてみようと、心ある蓮田市民15名がお集まりになり、この場への参加を求められました。

 私の語るこの歴史と、平野村民の心をもとに製作しようとするこの映画の願いに、蓮田市民の方々は感動と共に熱くご賛同いただき、更に多くの市民にお呼びかけをして、製作の一翼にご参加していただくことをその場でお約束して下さいました。

 あの日から73年を経た今、心やさしき蓮田市民のこころは、間もなく一本の映画として完成し、今の時代に子どもの命と平和を語るべく31日クランクインを迎えます。

 子どもの命を戦火から守った、蓮田の誇りも語りながら・・・

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蓮田市の心やさしき方々





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by cinema-tohoku | 2018-03-05 15:06 | 映画 | Comments(0)

 これまで「おおきくなぁれ」(仮題)としてご紹介して参りました、疎開保育園の史実をもとに、製作準備中の作品の概要がほぼ決り、本年7月完成をめざしてスタートを切っていました。

 その一つは題名です。

 一本の映画にとってその題名は、作品のイメージを多くの方にお伝えする上でとても大切なものです。

 この題名を昨年中には決めようと議論を重ねて参りましたが、「あの日のオルガン」― 疎開保育園物語 と決りました。

 この映画には、保母と子どもたちが歌う「わらべ歌」がふんだんに盛り込まれることになります。

 保母さんが奏でるオルガンの音に合わせて歌ったこれらのわらべ歌が、あの困難だった子どもたちの生活の大きな励みにもなっていたのだと思います。

 そして、その歌声は平和の訪れを求める子どもたちの願いでもあったと思えるのです。

 この映画が全国津々浦々で上映され、その感動が、大きな平和の未来を謳い上げてくれれば・・・と願っています。

 クランクインも決りました。

 諸般の準備を進めながら、クランクインは31日に決りました。

 メインの撮影地は、数々の日本映画の名作を生み出してきた京都。

 松竹京都撮影所を中心に、40日程の撮影となる予定です。

 こんな風にして大車輪で製作準備が進められています。

 私の当面する課題は、市民プロデューサーを募って、これらの製作を資金面で支えること・・・。

 新年早々、私が映画の世界に入って以来の長い友人、八戸市のA氏から有難い出資お申込書が届けられました。

 一歩一歩、子どもの命と平和を願う声はその輪を大きく大きく全国に拡げ始めています。

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by cinema-tohoku | 2018-01-22 16:41 | 映画 | Comments(0)
 お正月の松もまだ取れない19日、「平成29年度政策課題講演会」と称する映画「君の笑顔に会いたくて」試写会が宮城県庁で行われ、村井知事をはじめ、県の幹部職員160名がこの作品をご覧になりました。
 この作品にとって宮城県はまさに生誕の地、原作者の大沼さんは宮城県人、撮影地はオール宮城県、そして現在全国に先駆けて上映展開中の地でもあります。

 この作品の製作を企画した時、その運動上の全国への発信地を宮城に置こうと思ったのは当然のことでした。

 県民運動実現の思いを携えて原作者大沼さんとご一緒に村井知事とご面会、製作上映運動への全面的なご賛同をいただいてこの映画はスタートを切ったのでした。

 そして、映画は撮影から完成、更には宮城県上映へと歩みを進めていたのでした。

 こんな折、県のご担当課の方からご連絡がございました。

 村井知事が映画をご覧になりたい・・・とのご意向なので、諸般の相談をしたい・・・とのことでした。

 私達はこれまでにも、何本かの映画を同じく宮城発信の県民運動として製作してきましたが、公務にご多忙の知事から観たい〟との声が語られたことはこれまではございませんでした。

 今回改めてお声がけがありましたのは、大沼さんが8年にわたって県教育委員をおつとめになられ、知事が大沼さんのこととよく存じ上げておいでだったことだけではなく、今日の子どもたちを取り巻く状況に目をやった時、行政として何らかの手だてをせざるを得ない程、その状況が危機的になっていることが試写会実現の背景としてあった様でした。

 上映に先立っての村井知事のごあいさつは、この映画の上映を通して、宮城の子どもたちが未来に向けて育つためには何が必要なのか学んで欲しい・・・〟 この思いで実現した試写会でございました。

 県庁の講堂に映写機を持ち込んでの試写会は、それにしても何とも「異様な」雰囲気の試写会でした。

 何せ、160名の観客のほとんどがダークスーツを着た50歳前後の男性たちだったのでしたから・・・。

 それでも、ドラマが展開するや、目頭をそっとぬぐうお姿が見られ、上映終了後は満場の拍手で県庁の幹部職員の方々はこの映画を受け止めて下さいました。
 こんなていねいな一歩一歩が、この作品を全国に送り出す力となる・・・そんなことを実感して帰路についた新年の一幕でした。

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ダークスーツ一色の会場


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by cinema-tohoku | 2018-01-16 12:10 | 映画 | Comments(0)