人生、年を積み重ねて、その数何と70年を数えることになりました。
 この私が70歳…信じ難い思いで迎えたその日を、遠く離れた息子と娘は電話で、そして仙台に生活する娘家族は我が家を訪れて、心優しく古希の日を祝ってくれました。
 私たち世代は、戦後ベビーブームの世代、まさに団塊の中核とも呼ばれた世代でした。
 振り返るなら、子ども時代は今の基準で語るなら、まさに国民は全てが貧しい生活を送っていました。
 その日々の生活の中に〝ぜいたく〟は皆無・・・それでも地域社会と家族の絆はしっかりと私たちを支え、今日よりきっと素晴らしい明日が来る・・・貧しくとも希望で胸をいっぱいにふくらませながら送っていた少年時代でありました。
 そして、中学から高校に差しかかる頃は、まさに激烈な競争社会を経験し、東京の大学に進学、寮での生活を通して、稚拙ながらも初めて社会と向かい合うことになりました。
 時はまさに「70年安保」の時、時代から〝君たちはどう生きるか〟・・・と問われながら過ごした4年間…、そして卒業後の進路を、親の反対を押し切って映画の道に進めたのは、愚直なまでに誠実に生きようとした東北人の魂の故だったのかも知れません。
 それ以降、東京の共同映画からの独立と、シネマとうほくのスタートもありながら、映画の製作と上映を通した、人の世の幸せを願って歩み続けてきたのでした。
 こんな私たちに大きな危機が訪れたのは、7年前の東日本大震災の時でした。
 あの日の直前に完成していた「エクレール~お菓子放浪記」は、宮城での上映の道を断たれ、もはや会社を支えることは不可能とも思われながら、耐えに耐えながらここまで歩んで来られた要因は、あの時全国のたくさんの方々から頂戴した“人の情け”であり、ともするとくずれそうになる私を支えた家族の暖かい手でもありました。
 そして、70歳を迎えて、「君の笑顔に会いたくて」が全国展開をし、「あの日のオルガン」が完成を迎えました。
 まだ、前線で、しばらくは・・・そんなお声に支えられながら、古希から先に、まだ私の道は続いている様です。
 支えて下さった、たくさんの方々の願いに応えるためにも…。
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あの日のオルガン



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# by cinema-tohoku | 2018-08-07 17:43 | その他 | Comments(0)
 「あの日のオルガン」の原作本が、7月20日朝日新聞出版から再刊されました。
 このご本も、たくさんのドラマを紡ぎながらここまでたどり着いたのです。
 時は36年前、この史実の映画化の企画が持ち上がった時にさかのぼります。
 「疎開保育園」の歴史は、それまで色々な学習会等で断片的な報告はありましたが、まとまった記録がございませんでした。
 歴史の事実であるならば、しっかりとその史実をたどって一冊の本としてまとめ上げてから、映画化の企画を進めた方が良いだろう…とのことになり、そのご本の仕事を託されたのが、原作者となった久保つぎこさんでした。
 久保さんは、このご本が、ご本人がお書きになる2冊目のご本だったこともあり、託された仕事の大きさにいささかのたじろぎはありながらも、真正面からこのお仕事に向かって下さいました。
 そして、それから旺盛な取材活動を始められたのでした。
 当時はまだ、疎開保育園の保母さんたちが皆お元気で、久保さんはこの方々にも可愛がられながら、取材の毎日はその日を数えて行ったのでした。
 そして、無事出版の日を迎えたのは、それから何と3年後のことでした。
 この日は、まさに久保さんの執念が実った日でもありました。
 しかし…残念ながら、当時この映画化企画が実現することはありませんでした。
 それから、長い長い時間が経っていました。
 私が再度映画化の企画を思い立って、久保さんのご自宅をお訪ねしたのは2014年3月の事でした。
 久保さんは、そのお年を感じさせない、情熱いっぱいの風情で私の前に立って下さり、映画化の再企画を満面の笑顔で喜んで下さいました。
 そして、それからも数々の山と谷を経験しながら、それでもこの企画の完成を願う多くの方々に支えられて、この作品は先月無事に誕生の日を迎えたのでした。
 初号試写が終わった後、久保さんが私に見せて下さった笑顔にホッと胸をなでおろしたものでした。
 そして、久保さんの絶版となっていた原作は、幸い朝日新聞出版の方々のお目にとまり、7月20日新たな装いで再度、出版となったのでした。
 子どもたちの健やかな、そして平和な未来を願う、久保さんの熱い願いが結晶して…。
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原作「あの日のオルガン」


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# by cinema-tohoku | 2018-07-20 17:20 | 映画 | Comments(0)

 625日、東京五反田のイマジカ第1試写室で、映画「あの日のオルガン」初号試写会が開かれ、私の胸に36年にわたってあたため続けて来た企画は、無事この世に生を授かりました。
 初号試写は本来、スタッフの最終チェックの試写ですが、この日はこの映画の製作に欠くことの出来なかった「市民プロデューサー」はじめ関りの深い方々もお招きして、にぎやかな誕生の日となりました。
 振り返って見れば、ここまでの道の長かったこと・・・。
 36年前、私が以前勤務していた共同映画で、この企画は生まれました。
 久保さんにお願いして3年かけて原作本も出版され、いよいよ、と思われましたが、残念なことに諸般の事情で実現には至りませんでした。
 私は当時、子どもたちを保育所に通わせていた父親でありました。
 子どもの命と向かい合ったこの製作企画には、大きな感動を覚え、製作断念の決定をとても残念な思いで受け止めました。
 それ以降、この企画は私の胸の中にその位置を占めることになりました。
 〝いつの日にか…〟そんな願いとなって。
 そんな長い夢を実現へと駆り立てたのは、今の社会の現状でした。
 子どもたちの健やかな成長に赤信号が灯り、子どもの命がこんなにも軽くあしらわれた時代は戦後なかったのではないかと思っていました。
 そんな現代社会に、あの戦火の時代に、それでも子どもの命を守り抜いた若き保母たちの史実は、大きな感動と共にかけがえのないものを語ると思ったのでした。
 こんな思いが、企画の実現へと私の背を押したのでした。
 そして、この日の誕生を支えて下さったのが、「市民プロデューサー」の方々でした。
 今、この企画が語るべきものにご賛同いただき、
100万円のご出資で映画製作を支えて下さった心優しき方々は、この日までに70人を数えるに至りました。
 試写室のシートに座って、スクリーンと向かい合った時、市民プロデューサーのお願いに全国を回った折に、お会いした方々のお顔が頭をよぎり、思わず胸が熱くなるのを覚えたのでした。
 そしてスクリーンに映し出された映画…。
 ドラマが進むにつれ、流れる涙はスクリーンを曇らせ、エンドが打たれた時、深い安堵の思いで、私の胸はいっぱいになっていました。
 〝子どもたちの命と平和〟かけがえのないものを、今生まれたこの作品は見事に語った様です。


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# by cinema-tohoku | 2018-07-09 16:17 | 映画 | Comments(0)
 映画「あの日のオルガン」に描かれる、日本で初めて保育所を疎開させて53名の子どもたちの命を守ったのは、戸越保育所でした。
 東京品川区にあったこの保育所は、まさにドラマティックな成り立ちで生まれた保育所でした。
 ここには若い二人の男女が登場します。
 一人は東大経済学部の学生だった大村英之助さん、そしてもうお一人は都バスの車掌だった鈴子さんです。
 このお二人は当時の社会運動に目覚め、その中で巡り会い、そして結婚をしました。
 二人がこれから歩む道を探っていた時、子どもが授かり、この育児を通して、いつの間にか二人は、子どもたちの命を育む保育所をつくって見たい…そんな夢を描く様になりました。
 しかしながら貧しかった二人にはとても手の届かない夢かと思われましたが、英之助さんのお父様のご援助で、この夢は急速に実現に向かって行ったのでした。
 英之助さんのお父様は、当時の満鉄総裁をおつとめになられていました。
 我が息子は社会運動に目覚めた、いわゆる〝グレた息子〟でしたが、鈴子さんの夢には賛同して応援の手を差しのべてくれたのでした。
 そして、1939年、若い二人の夢を語る戸越保育所は開園したのでした。
 こんな足跡をたどって生まれた戸越保育所は、とても自由な風が吹く保育所でした。
 保育所の主任保母となった畑谷光代さんがこんなことを語っています〝とにかく自由な保育所だった…。新任の保母がベテラン保母の前でも臆することなく意見が言える…。保育をすることが楽しくて楽しくて…。〟
 しかしほどなく、この自由な保育所に暗い影が差して来ることになります。
 戦争が困難になるにつれ、この保育所に向けた当局の目は日増しに厳しいものとなって行きました。
 若い二人は深刻な議論を交わしました。〝このままでは保育所の存続が危ぶまれる…。〟
 そして二人は保育所を残すため、この保育所の経営を他の団体に譲り渡すことを決意したのでした。
 若い二人からこの保育所の経営を引き受けたのは、恩賜財団母子愛育会でした。
 この財団は、現天皇陛下のご誕生を記念して昭和8年創立された財団でした。
 当時の国民生活は極めて困難な状況に追い込まれて、子どもと母親の保健はほとんど顧みられない状況にありました。
 こんな時代に、母子の健全なる成長を願って活動してきた財団でした。
 そして迎えた1944年、財団と戸越保育所の保母たちは、疎開保育を決意したのでした。
 戦火から子どもたちの命を守る決意を込めて…。

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# by cinema-tohoku | 2018-07-02 15:25 | 映画 | Comments(0)
 間もなく完成を迎える「あの日のオルガン」を、全国に拡がる<子どもの命と平和>を語る上映運動にするべく、各都道府県毎の運動づくりを願っての旅が始まっていました。
 昨日は福岡で県組織立ち上げのための相談会が、そして今日は熊本での話し合いに参加して、その夜は長崎へ・・・。
 長崎県では、この上映運動スタートの第一歩として、<「あの日のオルガン」を応援する長崎のつどい>を準備して私を迎えて下さいました。
 私も、この作品の市民プロデュ―サーの拡大を願って、これまでにずい分各地を巡って多くの方々とお会いして参りましたが、この映画に描かれる「疎開保育」の史実については、ほとんど知られていなかったことを実感していました。
 長崎では、全県に拡がる上映運動を展開するにあたって、先ずはこの貴重な史実を知っていただくことから、その第一歩を踏み出そうと計画された、この夜の会でした。
 準備されたこの会は、ご多忙のお時間を調整してご参加いただいた、何と40名に上る方々を会場にお迎えして開会となりました。
 会の第一部は、疎開前の戸越保育所の保育の姿を描いた記録映画「ある保母の記録」の上映… 戦争の遂行に狂奔していたあの時代に展開された、子どもたちと向かい合った保育の姿に、そしてそこからにじみ出る製作者の平和への願いは参加者の胸を打ったのでした。
 そして、第二部はご指名されて、私のこの作品に寄せる思いと、疎開保育の歴史にしばしお耳を傾けていただきました。
あの困難だった戦火の時代に、子どもたちと向かい合って、その命を守った若き保母たちの姿は、ご参加者の胸を打ち、長崎の夜は更けて行ったのでした。
 それにしても昨今の社会状況・・・たった五年しか生きることの出来なかった幼い女の子の命…、世間では公然と〝嘘〟や人への野蛮なののしりの言葉が語られ、拝金主義がまかり通る社会…。
 小説家の高村薫氏が〝まるで文明社会の終焉のような・・・〟と語るこの時代に、この作品は「子どもの命と平和」を願って生まれようとしています。
 その重大な役割を実感させもした長崎の夜でした。


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「あの日のオルガン」を応援する長崎の集い

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長崎港の朝


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# by cinema-tohoku | 2018-06-28 11:01 | 映画 | Comments(0)