大日向村
「ぼくが生きてる、ふたつの世界」長野県上映が、その輪を更に大きく拡げていました。
混迷した現代社会に、人と人との心を通わせ、共に支え合う心を語るこの作品上映の意義は、口から口へと県内市長さんの胸に届き、県内19市のうち既に15市で上映が決ったり、上映実現に向けた働きかけが進められていました。
そして、その一ヶ所一ヶ所に<上映実行委員会>をつくろうとした運動は、私にまるで目の回るような仕事を強いていました。
ほぼ毎週の長野県通いが続いていました。
昨日は、小諸市での打合せの後、松本での試写会、そして佐久市長さんとのご面会と、ご一緒に上映運動を展開している信濃毎日新聞社のご担当の車で県内を駆け巡っていました。
佐久市に向かう道すがら、車窓の左手には雄大な浅間山が望まれ、フッと思い出したのでした。
ここには80年前の戦争の悲劇を語る大日向村があったことを・・・。
<大日向村>・・・日本が中国大陸への侵略を始めた時、中国東北部に傀儡国家満州国を立ち上げ、旺盛な移民政策を展開していました。
その初期の頃、南佐久郡にあった大日向村は、日本で初めての「分村」でこれに応えたのでした。
当時の人口1600名の半数800名が村を割って満州に移民、満州の地に<大日向村>を立ち上げたのでした。
このことは当時模範的な農村として国から称賛され、小説や映画にも描かれました。
しかしながら・・・1945年8月、ソ連の侵攻は<大日向村>の人々にも悲惨な逃避行を強いたのでした。
語れない数多くの悲劇を大陸に残しながら、日本に帰国出来たのはその半数の400名だけでした。
しかしながら、やっと帰国を果たした400名の方々に戻るべきかつての大日向村の土地はありませんでした。
国は軽井沢の国有地を払い下げ、これらの方々は入植しました。
そこは標高1200mの一面のカラマツ林でした。
人々はここを再び「大日向村」と名付け開墾を始めました。
カラマツの伐採、伐根・・・これは苦難の開拓事業でした。
時代は流れ軽井沢は一転、リゾート地として発展、「大日向村」の人々も観光業や建設業に転身し、切り拓いた農地は別荘地に変わって行きました。
佐久市に向う道すがら、80年前の悲劇に思いをはせ、歴史の流れに翻弄された人々の心に思いを寄せたのでした。
日本の敗戦から80年・・・戦争体験者も少なくなり、あの時の悲劇が忘れ去られかねない今、語り継がれなければならない民族の悲劇の歴史がここにはあったのでした。
by cinema-tohoku
| 2025-09-26 13:18
| 旅と出会い
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