あの日から10年・・・10年目の3.11
10年前の前日の3月10日は、東京での「エクレール・お菓子放浪記」完成披露試写会の日でした。
やっとここまでたどり着いた・・・そんな安堵の思いもあって、試写会後久しぶりに再会した学生時代の友人たちと交わした盃は、私を心地良い酔いに誘ってくれていました。
そして翌3月11日・・・それ以降の記憶は、私の胸にありありと刻まれています。
前日のお礼のため、全国和菓子協会をお訪ねしていたことを・・・そして突然の地震・・・騒然とした都内の道を、同行していたK氏の六本木の事務所まで1時間かけて歩いたことを・・・K氏の事務所で、テレビから流れる被災地の映像を、一晩まんじりともしないで観ていたことを・・・明けた翌日の空が、まるで昨日のことが嘘だった様な青空だったことを・・・。
そして、不安な思いを抱えながらそのまま、西への出張に旅立ちました。
静岡-福岡-佐賀-岡山-広島-大阪・・・1週間の出張を終えて、やっと仙台に戻ることの出来た私を待っていたのは、メインロケ地石巻のあまりの惨状でした。
映画のロケ地となった、100年の歴史の芝居小屋 岡田劇場は、影も形もなくなり、僅かに土台とトイレの床のタイルだけが名残をとどめていました。
ラストシーンの歌合戦の撮影で、エキストラになった石巻市民の笑い声が響いていた日和山公園、そしてそこから見下ろした市内の惨状に、涙が流れるのを止めることはできませんでした。
10年前の手帳を開いています。
「エクレール・お菓子放浪記」の東北上映は不可能になりましたが、不思議な運命を背負うことになったこの作品の全国上映を通して、被災地を支える心を語るべく始まった、全国への連日の旅の記録がつづられています。
スケジュール表の片隅には、〝疲れた・・・背が苦しい・・・うまく行かず、力不足実感・・・〟〝夕日に染まる雲仙普賢岳と有明海・・・旅の空に一人あることを実感・・・胸しめつけられる・・・〟こんな書き込みも。
そして5月・・・、いつも私をやさしく見守ってくれていた母の旅立ち。
行く先々であいさつを求められて、〝今、被災地は・・・〟その先は、言葉につまって語ることの出来なかった私・・・。
よくも心が折れずに、あれから2年を走り続けることが出来た・・・そして、その力の源がやさしき人の手のぬくもりだったことを実感しています。
あの日から10年・・・そして今はコロナ・・・コロナ禍は、社会に数々の暗い影を投げ落としています。
これまでの政治が進めて来た「新自由主義」の数々の問題点は、日本社会を脆弱化させ、社会的弱者を直撃しています。
自殺者の急増に胸が痛みます。
しかも際立って増えたのが、女性と子どもたち・・・。
企業の安全弁として、非正規の女性たちが不当に切り捨てられ、自己責任論が語られる社会の息苦しさに、道を失った女性が自らの命を絶っています。
そして、未来に夢を描くことの出来なくなった子どもたちが死を選択しています。
こんな今、人と人が支えあう社会が求められていることを、たくさんのやさしさに支えられて歩んで来た私たちは知っています。
ここを起点に、新たなスタートラインに・・・。
私たちの歩みはその先にまだ、道が求められているのかも知れません。