訃報
この疎開保育園は、約一年におよぶ保母たちの苦闘のドラマでしたが、その疎開生活を全身全霊の努力で支えた保母は11名・・・その全てが20歳前後の若い娘たちでした。
疎開保育園で子どもたちの命を守り抜いた保母たちは戦後、平和なそして民主主義の時代に、新たな保育の未来をつくるべくそれぞれの地域に飛び出し、戦後日本の保育運動のトップランナーとなってゆきました。
青空保育園からスタートして、東京北区に豊川保育園を立ち上げた畑谷光代先生…。
東京都三鷹市に井の頭保育園をつくり、その卒園式には必ず、東京大空襲で孤児になった疎開保育園の「健ちゃん」のお話を卒園児に語り続けていた福地トシ先生・・・。
労働者クラブ生協の保育園を経て、神谷保育園をつくった福光えみ子先生…。
そのお一人お一人の、変らぬ子どもと向かい合う情熱が、戦後の日本の保育のページを刻んできたのでした。
そして戦争が終わってから74年・・・、そんな保母さんたちも一人、そしてまた一人と他界されて行きました。
そして・・・、最後に残ったお一人が、先日静かに旅立たれました。
伊井澄子先生・・・疎開保育園の保母の中では一番若い、当時は19歳の娘でした。
東京で開催された、ある団体の上映会にご参加の方からご連絡がありました。
伊井先生が最後に勤務された東京白金幼稚園の先生で、伊井先生のお世話をされているHさんからのご連絡でした。
伊井先生がこの映画の完成を喜ばれて、是非観てみたい・・・DVDをしばらく貸して欲しい・・・とのご要請でした。
よろこんでDVDをお送りして、伊井先生のご観賞のご報告をお待ち致しておりました。
しかしながら・・・叶いませんでした・・・お体の具合が日々よろしくなく、映画をご覧いただけないままに息を引き取られた、とのお知らせがございました。
最後まで〝保育はね・・・〟と、保育をお心にかけながらの旅立ちだったとのことでした。
それでも、映画は完成し、あの時の保母たちが心を込めて語った〝子どもの命と平和〟への願いは全国に大きな輪と
なって拡がっています。
合掌・・・。
