沖縄県慰霊の日
6月23日「沖縄県慰霊の日」、あの凄惨を極めた沖縄戦の体験を語り継ぐため、沖縄県が制定した平和への祈りの日を、私は出張先の広島で迎えました。
70年前、沖縄は戦いの日々を重ねていました。
あの大戦中、唯一の日本領土で戦われた地上戦となった沖縄戦は、住民を巻き込んだものとなりました。
この戦闘での犠牲者は20万人を数えましたが、何とそのうちの半数は民間人であったところに沖縄戦の実相と悲しさがあったのでした。
私がこの歴史に初めて触れることになったのは、1980年公開された「太陽の子-てだのふあ」の製作配給にあたったことがその契機でした。
この作品は、灰谷健次郎さんの原作をもとに、鬼才浦山桐郎監督がメガホンをとった作品でした。
神戸の下町に肩を寄せ合うようにして生きる人々…その人々のつながりの中から、かつての沖縄戦の言語につくせぬその実相が蘇って来る...。
あの戦争から何十年が過ぎても、人々の心に深く刻みつけられ、いまだ消えることのない傷あと…あの沖縄戦の真実を描き、いつまでも続く平和を願って製作された作品でした。
この映画製作にあたって企画された「沖縄ロケ見学ツアー」で、私は初めて沖縄の地を踏んだのでした。
沖縄の方々から語られる沖縄戦の実相、そして訪れた旧陸軍病院跡のガマ(沖縄の自然洞窟)の暗闇から迫る、非業の死を遂げた人々の悲しい叫び…。
そして初めて訪れた私たちを暖かく包んでくれた人々のやさしさ…。
この沖縄訪問は鮮烈な体験として、その後の私の歩みにも大きな影響を与えたものでした。
そして引き続いて沖縄との巡り合いとなったのは、住民を巻き込んだ沖縄戦の真実を誠実に劇映画として語ろうとした作品「GAMA-月桃の花」の配給を通した、沖縄の人々との出会いからでありました。
この映画の製作を資金的にも支え、音楽も担当した海勢頭豊さんは、まさに南国のおおらかさとやさしさをそのお姿からも語る方でした。
海勢頭さんの磁力に引き寄せられる様にして、彼が経営する那覇市の飲み屋にまで訪れたものでした。
そしてもうお一人は、この作品の主人公のモデルとなった安里要江さんでした。
安里さんは、ご不自由な足をかばいながらも、幾度にもわたって東北の上映地に足を運んで下さり、あの悲惨な体験をやさしい笑みを浮かべながら東北の人々に語って下さったのでした。
そんな沖縄の「悲しさ」と、それでもその底流に流れる「やさしさ」の沖縄…。
そして今又、米軍基地の重さにつぶされそうになりながら、それでも必死の思いで本土に向けて平和への願いを語りかけようとする沖縄の声を、私は夕闇に浮かぶ原爆ドームを見つめながら受け止めました。
作家の瀬戸内寂聴さんが、ご高齢のお体をおして国会前に立たれ、私たちに向かって訴えられました。
「戦争にいい戦争は絶対にない。戦争はすべて人殺しです…。」と。
今、もう一度立ち止まって沖縄の悲しさを受け止め、そしてそこから私たち日本がこれから辿るべき道をしっかりと見つめ直す必要があるのではないかと思われるのです。