こんな題名の作品が完成、全国上映に旅立とうとしています。
ことのきっかけは、この作品のプロデューサー並木さんからのお電話でした。
私の友人で、長年北海道に拠点を置いて、映画の活動を続けて来たF氏からシネマとうほくの鳥居に会って相談を・・との助言を受けたとのお電話でした。
それでも、この時私たちは、中村哲さんの「荒野に希望の灯をともす」が大きく上映の輪を拡げて、その後の配給作品「ぼくが生きてる、ふたつの世界」も決っていて、とてもこの上に新たな作品をお引き受けできる状況ではありませんでした。しかしながらF氏の紹介・・電話口でお断りするのも失礼と思い、東京駅近辺の喫茶店でお会いしたことが事の始まりになったのでした。
並木さんは監督と一緒に私の前に・・・。
知性を感じさせるおだやかな話口で彼は、作品に寄せた熱き思いを私に語ってくれました。
新渡戸稲造、盛岡出身の私と同郷の偉人、“我太平洋のかけ橋とならん”こんな言葉でも知られ、国連事務次長や著書「武士道」で多くの方々に知られている歴史上の巨人です。
そんな新渡戸が、貧困や家庭の事情などのため学校で学ぶことの出来ない子どもたちのために1894年 札幌に夜間中学を開いたことは私も知りませんでした。
「遠友夜学校」と名付けられたこの夜間中学は先進的な思想と子どもたちへのやさしいまなざしがあふれた学校でした。
授業料はゼロ、男女共学、年齢の制限なし、そして子どもたちと向かい合う先生は当時の北海道大学の学生のボランティアによるものでした。
この学校からたくさんの人達が学びの喜びを胸にして巣立って行きました。
しかしながら、戦争の暗い影がこの夜間中学に忍び寄って来たのでした。
軍からの軍事教練を強制させられた夜間中学は、とても生徒たちに戦争の訓練をさせる訳にはいかない・・・終戦前年の1944年に、長い歴史に幕を閉じたのでした。
それでもこの新渡戸の子どもたちに向けたこころは途絶えることはなく息づいていたのでした。
戦後ずい分の時間が経った1990年、遠友夜学校のこころを受け継いだ自主夜間中学「札幌遠友塾」がスタートを切ったのでした。
戦争、貧困、差別、色々な事情で義務教育を受けることが出来なかった方々の修学の場として始まったこの学校は、今日に至るまで多くの卒業生を世に送り出しながら運営を続けられていたのでした。
この「札幌遠友塾」を立ち上げたのは工藤慶一さんでした。昭和23年生まれの彼は私と同年齢、北海道大学に進学して彼は様々な社会の矛盾と向かい合うことになりました。
学問を重ねて、これらの諸問題の原点を見つめる中で工藤さんが「学生運動」に身を投ずることになったのは彼の誠実さ故の当然の結論だったのかも知れません。
警察に逮捕、しばらくして社会に復帰して、これからの道を模索していた彼は新渡戸稲造の教育に向けた熱い情熱に気付くことになったのでした。
賛同の仲間を募り、その願いが結実したのが自主夜間中学「札幌遠友塾」でした。
「遠友夜学校」のこころを引き継ぐ思いで名付けた学校でもありました。
この「札幌遠友塾」の活動を知った並木さんと監督は早速工藤さんにご面会を申し出ました。
そして工藤さんとの話の中で彼らは作品の向かうべき方向を定めたのでした。
自らの生き方に誠実に向かい合っている並木さん、そして一時もぶれずに人の幸せの道を歩もうとする工藤さん・・・お断りする筈だった配給をお引き受けして私のカバンの重さは更に増したのでした。
でも伝えなければ・・・