「あの日のオルガン」の全国への発信地蓮田市で、心暖まる集会がありました。
 平和を願った市民の方々が、毎年日米開戦の記念の日に続けて来られた集会も回を重ねて今年は38回目。
 今回は、平和を語る「あの日のオルガン」について、私に話をして欲しい・・・とのご要請でございました。
 私は映画の世界の人間、人様の前で1時間ものお話をすることには、いささかのはばかられる思いがございましたが、この作品の製作決定から多大なご助力をいただき、市民プロデューサーに関っては、3口ものご支援をいただいておりました他ならぬ蓮田市のこと、お断りしかねて望んだこの日でした。
 当日はこれまでの最大という150名にものぼる市民の方々が、会場をいっぱいにうめて下さり、蓮田市副市長様、そして蓮田市教育長様のごあいさつで集会は幕を開けました。
 お二人とも既に試写会でこの作品をご覧になっていらっしゃいまして、この映画を通した平和への、そして蓮田市の全国発信への願いを語って下さいました。
 そして、ご指名されて登壇した私のつたない話も、ご参加の市民の方々は暖かく受けとめて下さいました。
 又、最後にはサプライズが・・・。
 当時の疎開保育園の園児で、3月10日の東京大空襲で全ての家族を奪われ、それ以降の人生を孤児として歩んでこられた田辺健之さん(ケンちゃん)が登場・・・、会場は驚きと共感の思いに一気につつまれました。
 “この映画が実現して、こうして蓮田の方々にお礼が言えることになった・・・本当にありがとうございました・・・。〟
 こんな言葉を語る田辺さんに、ご参加の方々は暖かい満場の拍手で応えて下さいました。
 平和・・・つくずく実感します、この概念は思想や信条を超えた、人が生きるための最低条件なのだと・・・。
 そして平和が語られる場には、こんなにもやさしき心が通い合うのだとも・・・。
 映画上映の成功への思いを更に大きく拡げることとなった蓮田の一日でした。
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会場いっぱいの集会

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田辺健之さん


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# by cinema-tohoku | 2018-12-12 13:37 | 映画 | Comments(0)
 多くの方々の、やさしいお手に支えられて、映画「あの日のオルガン」が完成し、明年2月からの上映成功に向けて、全国でその準備が始められていました。
 そして、その先頭を切って上映実行委員会の発足に向けた「呼びかけ人会」が開かれたのが埼玉県蓮田市でした。
 1944年、戦火から子どもたちの命を守るため、東京品川区にあった戸越保育所は、保育園の疎開を決断しました。
 しかしながら、その前には乗り越えなければならない課題が山積していました。
 そして、その大きな一つが、場所の設定の課題でした。
 下は3才からの53名の幼児を生活させる場所・・・そして欠くことの出来ない食糧確保の課題も大きな問題でした。
 当時、この保育所を経営していた、恩賜財団大日本母子愛育会は、最大の努力でこの課題に向かい合いました。
 そして、その願いに手を重ねて下さったのが、埼玉県平野村(現蓮田市)の心やさしき方々でした。
 平野村高虫にあった無住の荒れ寺 妙楽寺が、疎開先を引き受けて下さり、食糧問題は、有難いことに、平野村の方々が食糧支援体制をつくってこれを支えることで疎開先は決定したのでした。
 それ以降平野村の方々は、子どもたちの命を守る心やさしきご支援の手で、疎開保育園を支えて下さったのでした。
 この平野村のやさしきお手がなければ、この53の幼い命は、地上から消えてしまっていたのかも知れなかったのでした。
 まさに平野村は、53人の子どもの命を救った村だったのでした。
 そしてあれから73年・・・この平野村の心やさしき歴史は、一本の映画となってこの地に生を授かったのです。
 この映画の製作支援に、先ずもって立ち上がって下さったのは蓮田市民の有志の方々でした。
 この市民の方々の熱い思いは、短い時間の中に市内に共感の輪として拡がって行きました。
 そして、この願いに熱く賛同して下さったのが蓮田市長さんでした。
 映画をご覧になって大感激・・・ 子どもたちの健やかな成長に赤信号の灯った現代社会に、「子どもの命」を感動と共に語るこの作品は、蓮田市民の誇りでもある・・・そんな市長さんの思いは、これも市内多くの方々の共感ともなり、11月8日蓮田市上映成功をめざす上映実行委員会の「呼びかけ人会」が、開催されたのでした。
 当日は、市内の主だった団体の方々がご参加され、「子どもの命を救った町蓮田」の誇りを市民の心に語る運動、そしてそんな蓮田の誇りの全国発信へのスタートは、この日切られたのでした。
 この共感の輪を、10,000名の市民の心につなぐ夢を語りながら・・・。
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蓮田市呼びかけ人会議






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# by cinema-tohoku | 2018-11-19 15:30 | 映画 | Comments(0)
 昨日は「立冬」・・・、暦の上では冬を迎えるというのに、ここ東京は季節はずれの暖かさ・・・思わず上着をぬいで手にかかえました。
 台風、集中豪雨、地震・・・昨今の「異常気象」は、もはや異常とは言えない、日常のものになってしまった様です。
 この先に、漠たる不安も感じさせる自然現象が続いています。
 自然が異常になると、人の心も異常になってしまうのでしょうか。
 事は10月31日のことでした。
 甲府から東京に戻り、私が以前勤務していた会社の社長と久しぶりに旧交をあたためようと、待ち合わせをしたのが渋谷駅でした。
 夕刻に渋谷に到着、そしてそのあまりのすさまじさにしばし立ちつくしたのでした。
 そうです、この日はかの「ハロウィン」なるその日だったのでした。
 この頃には、駅前のハチ公前広場は、立錐の余地のない人、人、人で埋まり、その一人一人に目をやるなら、そのすさまじい姿に絶句でありました。
 そして刻一刻と、その人の波は大きくふくらんで行ったのでした。
 本来は〝秋の収穫を祝い、悪霊を追い出す宗教行事〟とのことですが、この祭りの本来の意義は全て放り投げ集まる若者の姿は、ただひたすらに刹那的な快楽と、バカ騒ぎを求める悲しい姿としてしか、私の目には写りませんでした。
 消費文明のみをあおるマスコミにおどらされて、「理性」や「知性」とは真逆な道をたどるあわれな姿にも感じさせられたのでした。
 明けて今朝のニュースは、アメリカの中間選挙の結果を報じていました。
 反知性とフェイクに塗り固められたトランプ政権にストップをかけたのは、立ち上がったアメリカの若者たちであったと・・・。
 このあまりの落差にぼう然としながら、それでもあきらめてはならないのだと思うのです。
 私の手の中にある文化としての映画を、今を生きる一人一人に、そして若者たちにも今だからこそ伝えなければ・・・。〝人の情〟や〝人の道〟を映画を通して学んできた私たち世代なのですから・・・。
 そんな思いにさせられた渋谷の一夜でした。
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映画「あの日のオルガン」より


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# by cinema-tohoku | 2018-11-16 12:09 | その他 | Comments(0)
 紅葉が盛りを迎えた北海道にやって来ました。
 空路札幌にはいり乗り換えて小樽へ・・・。
 これまで幾度か訪れていたのですが気が付きませんでした。
 小樽に向かう途中の駅には、「星置(ほしおき)」「ほしみ」・・・満天の星空の輝きを思わせる素敵な駅名があったことに気付かされました。
 そんな発見に心を和ませながら、訪れた小樽地区保護司会の皆様は、やさしい笑顔で私を迎えて下さいました。
 そして明年、発足70年を迎える小樽地区保護司会の記念上映会として、「君の笑顔に会いたくて」の上映を決意して下さいました。
 ご相談はトントンと進み、仕事が早めに終わったので、小樽の山手の一角にある「小林多喜二文学碑」を訪れてみようと思いました。
 この碑は、1964年多喜二の同窓生が発起人となって募られた資金で、小樽を一望する山の一角に建立されたものでした。
 小林多喜二・・・秋田県で生まれ小樽に移り住み、その中で社会の諸問題と向かい合い、人の幸せに寄り添いながら、その短い生涯を駆け抜けるようにして熱く生きた文学者です。
 日本映画の名匠今井正監督の手で製作され、1974年公開となった映画「小林多喜二」は、私が以前勤務していた会社の配給によるものでした。
 小林多喜二の名前は、それまでにも知ってはいましたが、この作品の配給に誠実にあたるため全集を買い求め、それを読みながらこの仕事に向かっていったことを記憶しています。
 そして多喜二の、人に寄せた心のやさしさと、時代の矛盾を解くため、身を投じてそれにあたった情熱に、私の胸を熱くしたことも思い出したのでした。
 もはや晩秋を迎え、雪虫も飛び交い始めた小樽の山を、落葉を踏みしめながら一人歩き、過ぎ去った若かりし頃の自らとしばし向かい合ったのでした。
 そしてたどり着いた高台に建つこの碑は、大地に根を張った確かな存在感を語っていました。
 夕刻が忍び寄り始めた碑の前に立ち、思わず両の手を合わせた私でした。
 人の幸せに寄り添いながら、もうしばらくは私も努力を重ねる決意も込めて…。
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小林多喜二文学碑
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夕やみの迫る小樽運河


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 ここしばらく、「あの日のオルガン」全国上映のしくみづくりで東京出張が続いていました。
 幸い多くのご支援を得ることが出来、作品は完成し、二転三転しながらも全国公開の大筋がほぼ見えて来たので、「全国上映運動」づくりに久しぶりに関西を訪れました。
 昨日は、神戸、大阪で保育団体との話し合い、その後京都に移動して、今日の朝は久しぶりに京都で迎えました。
 いささか疲労気味の我が心身のリフレッシュも願って朝の散歩へ・・・1時間半程かけて京の町を巡りました。
 夏のあの殺人的な酷暑もどこへやら・・・空一面を彩る鱗雲は、京都の町への秋の訪れを告げていました。
 宿を出た足はいつの間にか東に向かい、歩きながら、ほどなく私の胸にはその目的が形になっていました。
久しぶりに清水寺を訪れようとする思いが。
 そして、清水寺の境内の一角に立つ「記念碑」を訪れる目的が・・・。

 1998年、いくつかの夢を描きながらシネマとうほくを設立した時、私の胸には一本の映画製作の夢が明らかな形となっていました。
 私を生み育てた岩手の地に刻まれた、北の誇りをこの映画を通して語ろうとする夢が・・・。
 思いを込めて製作に取り組んだ作品は、長編アニメーション「アテルイ」でした。
 今から1200余年前、東北の地は遠く縄文から受け継いだ文化を引きつぐ平和な、そして豊かな地でした。
 その頃、近畿に拠点を持った強大な国家ヤマトは、その版図を全国に拡げていました。
 そして、最後までヤマトの意図になびかなかった北の地を我がものとするため、強大な軍勢を送って来たのでした。
 北の民を「エミシ」とさげすみながら・・・。
 その不当な侵略に抗して、故郷の生活と誇りを守るために立ち上がった勇者達がいました。
 そして、その先頭に立ったのが、若き勇者アテルイでした。
 地の利を生かしたエミシの騎馬軍団は、圧倒的なヤマトの軍勢を相手に見事な戦いを続けましたが、その戦いは長期におよび、北の民をヤマトによって根絶やしにされることから守るため、アテルイはヤマトの指揮官坂上田村麻呂に降伏を申し出、盟友のモレ共々500騎で京に連行され、802年河内国杜山(現枚方市)で惨殺されたのでした。
 そんな北の勇者たちを顕彰しよう・・・そんな声が岩手を中心にあがったのは、アテルイ没1200年の記念の年のことでした。
 この年に、私たちのアニメ「アテルイ」は完成し、西の地には坂上田村麻呂が願主となって建立された清水寺の一角に、北の地の英雄を顕彰する碑が森貫主様の揮毫で除幕されたのでした。
 それ以降、京都を訪れた時間をぬっては、碑に手を合わせて来ていました。
 久しぶりに訪れた清水寺には、変わらずに「アテルイ・モレの碑」が秋の空を背景に北の誇りを語っていました。
 36年来の思いがかなって完成した「あの日のオルガン」の成功と、アテルイたちが命をかけて守ろうとした平和への願いを込めて、思わず両の手を合わせた京都の朝でした。
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京都の空を彩る鰯雲
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阿弖流為 母禮の碑



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