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 このブログをずいぶんとごぶさたしていました。
 お伝えするべき仕事がなかったわけではなく、日々の仕事に追われて、ブログと向かい合う余裕がなかったのだと思います。
 倉敷を舞台に製作された「蔵のある街」の配給準備が整って、先ずもって舞台となった倉敷市を始めとした岡山県各市町村に上映の輪を拡げるべく、先月はほぼ毎週の岡山県通いをしていました。
 県内の市町村に、住民の心通う街づくりをめざした地域運動としての上映を実現するべく県内の各市町村の首長さんとのご面会が続いていました。
 交通費も節約して、効率よく…と思い、飛行機(ピーチやスカイマーク)と電車を乗り継いでの岡山県通い・・・それでもやはり遠いのです。
 二泊ほどの出張から帰るや、心と体はもはやヨレヨレ・・・。
 それでも倉敷市では、市長の願いが叶って、市内全中学での学校上映が展開中、日々子どもたちの素晴らしい感動の声が伝えられていました。
 こんな子どもたちの素直な声に背を押されながらの岡山県通いの日々でした。
 そして、ここに来て更にもう一本の作品の全国配給に取り組むことになりました。
 「RETURNEES(リターニーズ)」、中村哲さんの「荒野に希望の灯をともす」を製作した日本電波ニュースの作品です。
 電波ニュースの社長から観て欲しい映画がある・・・と作品の紹介をいただいたのは、やっと季節も春めいてきた3月の頃でした。
 拝見した作品は、アフリカ・ウガンダを中心に展開する「少年兵」を巡る子どもたちのあまりに悲惨な現状を描いていました。
 1987年、ウガンダに生まれた反政府勢力は、「神の抵抗軍」として3万人の子どもたちを誘拐して男の子は兵士に、女の子はその妻として強制結婚させていました。
 子どもたちは命令に従わなければ殺される、という恐怖を刷り込まれ、学校教育も受けられないまま戦場で生き抜くことを強いられました。
 こんな悲惨な子どもの現状に触れ、その境遇から子どもたちを救い出し、自立への道を拓こうとした日本人が居たのでした。
 彼らは、日本に「NPO法人 テラ・ルネッサンス」を立ち上げ、支援に必要な資金を調達してその活動を続けました。
 この作品は、こんな「テラ」の支援活動を描いたドキュメンタリー作品でした。
 アフリカにこんなにも悲惨な状況に追い込まれた子どもたちがいたことに目を開かせられました。
 そして、こんな子どもたちに支援の手を差しのべた日本人がいたことに感動も覚えたのでした。
 私たちは「荒野に希望の灯をともす」の全国上映を通して、戦火と飢饉のために今日を生きることも困難になったアフガニスタンの方々を支えた中村哲さんのご活動を伝えて来ました。
 「RETURNEES(リターニーズ)」が語るものは、この中村哲さんのご活動と肩を並べるほど意義のあるものと思えたのでした。
 「蔵のある街」と並行して、もう一作の配給を・・・たくさんの不安はありましたが、今果さなければならない私たちの役割がここにもあると思い、全国配給に立ち上がったのでした。
 まだまだ引退のゴールは遠い様です。
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「蔵のある街」  🄫つなぐ映画「蔵のある街」実行委員会

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「RETURNEES(リターニーズ)」 🄫日本電波ニュース社
 

# by cinema-tohoku | 2026-07-03 17:28 | 映画 | Comments(0)
 「蔵のある街」全国展開の第一歩が埼玉県蓮田市での試写会で印されました。
 「蔵のある街」の監督平松恵美子さんの前作は、40数年に及んだ私の企画が実現した「あの日のオルガン」でした。
 「あの日のオルガン」は今から80年前、日本国中に空襲が相次いでいた時の東京から始まるお話でした。
 まもなく東京への空襲が必至の状勢の中、品川区にあった戸塚保育所の保母たちは大きな決断を下しました。
 戦火から子どもたちの命を守るため、保育園を地方に疎開させる決断でした。
 しかしながら、全国でも前例のなかった保育園の疎開・・・その実現にはたくさんの困難があったのでしたが、保母たちはそれを一つ一つ乗り越えて、1944年11月25日疎開先への列車は上野駅を出発しました。
 参加したのは、下は3才からの53名の幼児たち、そしてそれを引き連れたのは、そのほとんどが20代の若い11名の保母たちでした。
 そして、敗戦をはさんで丸1年におよんだ疎開保育園は、一人の子どもの命も失うことなくすべての子どもたちを平和な時代に送り出したのでした。
 この疎開先となったのが、埼玉県平野村(現蓮田市)の妙楽寺というお寺でした。
 食料事情も困難になっていたあの頃、平野村の方々は、保母たちの願いを受け止め、子どもの命を守る大きな役割を果たしたのでした。
 この作品の製作準備が始まった時、不足する製作費のご支援のお願いを携えて蓮田市を訪れたのは2018年3月、梅の花のほころび始めた頃でした。
 “子どもの命と平和” の願いを伝えるこの映画の製作に蓮田市民の方々は熱く熱くご賛同して下さり、市民への募金活動でこの製作を支えて下さいました。
 そして完成したこの作品の蓮田市上映は、更にドラマチックな展開となったのでした。
 蓮田市の市長さんを中心に構成された<上映実行委員会>の訴えは、まるで砂地に水がしみ込む様に市民の中に拡がって行きました。
 そして迎えた上映は、人口5万人の蓮田市で何と1万人にのぼる市民にご参加いただく大成功上映会としてその幕を閉じたのでした。
 それでも蓮田市民の方々は、これで運動の幕引きにはしませんでした。
 これまで知られていなかった蓮田の歴史― “戦火から子どもたちの命を守った町” ―の掘りおこしと顕彰の活動へと発展させて行ったのでした。
 「あの日のオルガン」の平松監督が心を込めて製作した「蔵のある街」のことが伝わるや、市民の方々は即刻に立ち上がって下さいました。
 先ずは観たいし観せたい・・・そして賛同いただけるならそこから上映への動きを・・・そんな思いで開催された試写会は、岡山県を除くなら全国初・・・不思議なご縁がつながって開催された試写会には、蓮田市長さん始め、会場に入り切れないほどの80名の市民が足を運んで下さいました。
 映画が始まると会場からは笑いの声が・・・そしてラストにさしかかる頃には感動の涙をぬぐう姿が・・・。
 全国初の試写会は市民の感動となってその幕を閉じたのでした。
 ニュースからはイランでの戦争の報道、そして国内からは子どもたちの悲しい自殺を伝える報道、閉塞感でいっぱいになってしまった現代社会に、この映画は、地域に人と人との心を通わせ、子どもたちを健やかにその未来に送り出す・・そんな願いが観る者の心に伝わった様で、上映終了後は熱い熱いお声が届けられたのでした。
 今から80年前、戦火から子どもたちの命を守った町蓮田から、この映画は全国に向けた旅立ちの一歩を印したのでした。
   「蔵のある街」・・・蓮田市・・・_a0335202_10093065.jpg
「蔵」蓮田試写会

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🄫2025つなぐ映画「蔵のある街」実行委員会




# by cinema-tohoku | 2026-03-03 10:25 | 映画 | Comments(0)
 先日、久し振りに「荒野に希望の灯をともす」製作の日本電波ニュース社をお訪ねして、この映画のプロデューサーでもある上田未生社長さんとお会いしました。
 配給を担当していた「荒野に希望の灯をともす」の上映が全国に大きく拡がり、全国の観客数が日本の記録映画としては異例な17万人を数えたことのご報告とお礼を兼ねてのご訪問でした。
 上田さんは、私の訪問を喜んで下さり、積もる話に花が咲きました。
 その折、上田さんから一冊のご本を頂戴しました。
 以前のブログ(「日本電波ニュース」2025.5.13)でも触れましたが、電波ニュースの創設者で初代社長の柳澤さんは、あの戦争終結の時NHKの報道担当として、日本の歴史にとても大きな役割を果たした方でした。
 1941年12月、日本は勝つ見込みのない対米戦争に突入しました。
 案の定、戦局は日増しに不利となって、もはや戦争の継続は望むべくもなく、1945年連合国側から突きつけられた降伏要求の最終宣言「ポツダム宣言」の受諾を日本が決意したのは、1945年8月14日でした。
 そしてこの敗戦を国民に伝えるため天皇自らが直接国民への放送にあたることとなり、当時のNHKが天皇のメッセージをレコードに吹き込み、これを翌8月15日全国に放送する手筈を整えたのでした。
 しかしながら、徹底抗戦を唱える一部の将校たちは、この放送を阻止せんと銃を携えてNHKに乗り込んで来たのでした。
 この時、その反乱将校と対峙して、無事に天皇の<玉音放送>を放送する大きな役割を果たしたのが柳澤さんでした。
 あの時の彼の努力がなければ日本の運命と歴史は大きく異なるものになっていたのかも知れないのでした。
 昭和の歴史の大きな一ページとなったこの時の柳沢さんの証言を後世に残すべく、幾度かにわたって生前のご自宅をお訪ねして取材のビデオを回して来たのが、上田さんでした。
 そして、そんな柳沢さんの歩みとあの日のことを綴って岩波書店から一冊の本となって出版されたのがこのご本でした。
 柳沢さんの歩みと、NHKへの入局、開戦、そしてあの“日本のいちばん長い日”・・・。
 目を離すことが出来ずにたちまちのうちに読み終わったのでした。
 昭和のあの激動期を、一人の報道人として精一杯の良心を胸に生きた柳沢さんの歩みが熱く胸に伝わって来ました。
 戦争中、大本営から発表された虚偽の報道をそのまま国民に伝え、あの大惨禍を招いた責任を感じ、柳沢さんは戦後NHKを退社し、正しい報道を伝えるため立ち上げたのが<日本電波ニュース社>でした。
 ご本の中の一節が胸に残りました。
 生前柳沢さんがよく語っていた言葉、“戦争による最初の犠牲者は真実である・・・”
 今の日本に伝えなければならない、これは大切な一人の人間の歩みです。
     「玉音放送を命にかえても」_a0335202_16142965.jpg

# by cinema-tohoku | 2026-02-20 16:18 | 映画 | Comments(0)
 あけましておめでとうございます。
 今日は1月8日、長野県松本市で朝を迎えました。
 朝の冷気が心地良く胸に入り、遠くに望む南アルプスは朝日を浴びて紅に染まり、松本駅の温度計は、氷点下9度を示していました。
 いささかの緊張感で本年初めての出張に発ったのは昨日のことでした。
 昨年準備を進めて来た「ぼくが生きてる、ふたつの世界」長野県上映が、何と県内19全市上映となり、その打合せもあり、3泊4日の初出張でした。
 長かった年末年始のお休み・・・子どもや孫たちが全員集合、にぎやかな時を過ごしました。
 若い時は子どもたちの先頭に立って動き回っていた私でしたが、流石に重ねた年齢がそのエネルギーを減殺して、あまり動き回らない長期休みでした。
 こんな調子で果たして仕事に又向かい合うことが出来るか・・・少しの不安を抱えながらの初出張でしたが、愛用のカバンを携えて電車に乗れば、いつの間にか身体と心はいつのも仕事モード。
 新たな年も駆け抜ける思いで仕事に向かい合っています。
 そんな本年、一本の新作の配給をお引き受けしました。
 「あの日のオルガン」で素晴らしい作品をつくり上げてくれた監督の平松恵美子さんが、プロデューサーと監督の二足の草鞋を履いて完成させた映画「蔵のある街」でした。
 平松さんの故郷は倉敷市です。
 「あの日のオルガン」の全国公開の折、私は平松さんに一つのお願いをしました。
 倉敷市上映にあたって、かつて友人や同級生たちにお声がけをして、上映成功の<応援団>をつくってくれないかと・・・。
 平松さんはこの願いを引き受けて下さり、倉敷上映は見事な成功をおさめたのでした。
 その折、応援団の皆さんとの懇親会の席で私は、次はこの倉敷を舞台に平松監督で一本の映画をつくっては・・・そんなお話をしたのでした。
 あれからずい分の時間が経って、私は忘れてしまっていたのでしたが、倉敷では同級生たちの手による製作運動が進められていました。
 映画製作にあたって、大きなハードルは製作資金の調達の課題です。
 しかしながら、夢の実現に向けた熱い心を持った彼らは、なんと製作費1億円を集め切って作品を完成に導いたのでした。
 そして平松さんから、劇場上映終了後の全国配給への熱い願いが私に伝えられていました。
 しかしながら、「荒野に希望の灯をともす」を抱えて、さらに「ぼくが生きてる、ふたつの世界」の配給を決めた私たち、この上更なる新作はお引き受けしかねる・・・私はこの課題に向かい合うことを避けていたのでした。
 それでも平松さんからの熱いご要請は度重なり、試写会のシートに身を委ねたのでした。
 スクリーンに展開されるドラマはいかにも平松さんの作品、人に寄せる信頼と深い愛情に彩られていました。
 そして、映画がラストシーンにかかった時、スクリーンは私の涙でにじんでいたのでした。
 年明け早々、トランプによるベネズエラへの軍事侵攻、世界に「暴君」がはびこり、平和と民主主義の危機を危惧せざるを得ない今、「蔵のある街」は地域の中に人と人との心を通わせ合い、共に支え合いながら子どもたちの素晴らしい未来の実現を語る・・・そんな作品となって私の胸に熱い心を語ってくれたのでした。
 配給をお引き受けして私のカバンにこの映画はその位置を占めることになりました。
 差別と分断ではなく、信じ合い支え合う地域の未来を願って・・・私の仕事はまだその先に続いている様です。
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寒い!松本駅

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朝日に染まる北アルプス
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「蔵のある街」

# by cinema-tohoku | 2026-01-23 09:39 | ご挨拶 | Comments(0)
 早いもので、今年も残すところ僅かとなりました。
 一年の過ぎ去る速度が年とともに増して来ている様に思えるのです。
 残された僅かな時間・・・せめてもう少しゆるやかに時が流れて欲しいと思うのですが・・・。
 いずれにしても、何とか無事に一年を終えることが出来たことを嬉しく思うのです。
 それにしても、色々なことが次から次へと起った一年でした。
 7月に行われた参議院選では、思ってもいなかった参政党の大躍進、国の未来に格差と分断を持ち込もうとする勢力に国民が信を与えたことに、不安な思いにさせられました。
 止まることを知らない物価高は国民の暮しをますます困難なものにさせました。
 そして新たに発足した高市内閣、台湾情勢を巡っての暴言や非核三原則の見直し発言、そして大軍拡路線・・・これも国の未来に大きな不安な要因となりました。
 更には、秋から始まった熊騒動、自然さえもが常態から道をはずしてしまった様でした。
 数え上げれば数々の不安の要因が展開した一年でありました。
 しかしながら私たちの仕事は大きな可能性を語るものとなった一年でした。
 長年にわたって取り組んで来た「荒野に希望の灯をともす」は本年、その全国観客数がまるで夢の様な16万人突破となりました。
 国の内外に、平和と民主主義の危機が語られる今、この上映に示された民意は、“まだあきらめなくとも良い!”そんな思いにさせられたのでした。
 そして、今年一年私たちが取り組んだ「ぼくが生きてる、ふたつの世界」も大きな拡がりをつくりました。
 殊に長野県では、なんと県内19市全市上映が実現、しかもこの全ての市で、それぞれの市長さんが先頭に立ってこの上映をご決意、自ら先頭に立って地域にご賛同の輪を拡げた<上映実行委員会>を立ち上げ上映を実現して下さいました。
 人の心に直接働きかける文化としての映画に携わる私たちに課せられている課題はとても大きなものであることを実感しています。
 来年も頑張りましょう・・・人の世の幸を願って・・・。
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中村医師とアフガン人スタッフたち(2015年10月) 🄫日本電波ニュース社

# by cinema-tohoku | 2026-01-05 09:46 | ご挨拶 | Comments(0)