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心通い合う地域社会と子供たちの健やかな未来を願って展開された「じんじん」の500ヶ所を数えた上映は、それぞれの町毎に素晴らしいドラマを織り成しながら拡がってゆきました。

そんな一つに南木曽町がありました。

長野県木曽谷の愛知県との県境に人口4500名程の南木曽町はあります。

そんな南木曽町の南木曽中学の3年生の担任の先生からお電話がかかってきたのは、春真っ盛りの昨年5月のことでした。

“南木曽町には公立の図書館がない…南木曽中学3年生の総合学習として南木曽町に図書館をつくる活動を行っていた…。その傍ら、この映画を観て感動をした…ついてはその活動の一環として生徒たちに上映を取り組ませてみたい…”とのお話でした。

電話口から伝わる先生の熱い思いに動かされ、木曽をお尋ねし先生とお会いしました。

とても素晴らしい企画だが、中学生の生徒たちの自らの思いが最も優先されると思うので、生徒たちにこの映画を観てもらい、彼ら彼女たちが自らの思いで上映を希望するなら…と、試写会の実現を申し出ました。

試写会当日、南木曽中学3年生23名の生徒たちは喰い入るようにしてスクリーンに観入り、ラストシーンにこぶしで涙を拭う生徒たちの姿は、私の胸を熱くさせたのでした。

後日、先生からお電話がはいりました。

映画について生徒と話し合いをした…正直こんなに熱く受け止めてもらえるとは思ってもいなかった、全員一致で上映を決めた…こんな結果を先生は熱く私に語って下さいました。

こんな生徒たちの願いに町民たちも賛同してくださり、いよいよ活動開始の直前、南木曽町を大惨禍が襲うこととなりました。



・・・「南木曽町②へ続く」


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今日311日は4年前の東日本大震災発生の日です。

昨日降った雪が日陰に残る寒い記念の日となりました。長かった様で、そしていつの間にか過ぎ去って行ったこの4年でもありました。

あの日は私は東京新宿に居りました。今の時代に“支え合う人の心のやさしさ”を語ろうと、映画「エクレール・お菓子放浪記」の製作を決意したのは2007年のことでした。

この作品の撮影地を石巻を中心とした宮城県に決めたことを、宮城県民は熱く迎え入れて下さり、知事を先頭とした県民運動でこの製作を支えて下さいました。そして20112月、この作品はこの世に生を授かり、東京で完成披露試写会を開催したのは2011310日のことでした。

幸い会場は、完成を待ち望んでいた観客で満席に埋まり、上映終了後の満場の拍手は、まさに宮城県民の夢の出発への合図とも思えたのでした。

そしてその翌日、4年前の311日のあの時間、私は試写会の御礼で東京新宿区に事務局を置く全国和菓子協会をお訪ねしていたのでした。突然のビルを大きく揺らす振動に驚いた私に、テレビをつけた和菓子協会専務理事さんから語られた言葉は“鳥居さん、東北が大変だ…”との言葉でした。

同行していた、シネマディストのK氏と一緒に外に出て、新宿駅を通った折に観たビジョンから映し出された映像は、巨大な津波が岩手の沿岸を襲い堤防を乗り越える映像でした。

どこをどう歩いたのか…。

ともかく事務所に戻ろう…とのK氏の言葉で六本木の彼の事務所に辿り着き、一晩まんじりともせずにテレビから流される悲惨な映像に見入っていたのでした。

明けた翌日…、まるで昨日のことが嘘のように晴れ上がった東京の空を、これから始まることへの大きな不安と共に眺めていたことが思い出されます。

そしてあれから4年の時間が流れてゆきました。振り返ってみればこの4年間はあの大惨禍に負けずに歩もうと挑戦し続けて来た時間の積み重ねだったのかも知れません。


「エクレール・お菓子放浪記」は2年かけてその上映を全国に大きく拡げました。

そんな動きを受け継ぐ様に「じんじん」も全国に500ヶ所以上の上映を数えました。

新たな日本映画の未来を願って協同組合ジャパン・スローシネマ・ネットワークは立ち上がりました。


そして、そんな一つ一つの局面で私たちを支えて下さった数多くの方々のお顔が今、目に浮かびます。これから5年、10年、更なる歩みを重ねる私たちに求められていることは、あの日そしてそれ以降の復興に関って、私たちが授かった数多くの「人の情」を今度は、全国に向けて語り続けることなのかも知れません。

支え合う地域社会と心優しき国の未来をつくりあげるために…。



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石巻市 北上川河口の葦原


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石巻市 岡田劇場





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# by cinema-tohoku | 2015-03-11 16:46 | その他 | Comments(0)

東京大空襲の大惨禍から70年目の3月が巡ってきました。

1945年、敗戦間近の3月9日未明から10日にかけて東京を襲った325機のB29は、たちまちのうちに東京を火の海に変え、一度にして10万人の民間人の命を奪ったのでした。それはまさに地獄絵図とも言える悲惨な光景となり、東京下町は一夜にして焦土と化したのでした。

そんな惨禍を二度と繰り返させない…。そして不幸にも生命を奪われた数多くの方々の慰霊を願って心ある民間の方々が「東京大空襲」を語りついできましたが、そのお一人に海老名香葉子さんがおいででした。

海老名さんは沼津の疎開地で赤く燃える東京の空をみつめ不安な一夜を過ごしました。
そして彼女にはあまりに過酷な現実が突きつけられたのでした。東京大空襲は不幸にも海老名さんの家族の絆を奪い、一夜にして彼女は戦災孤児となってしまったのでした。

その後、幸いにして彼女は人の情に支えられ、初代林家三平師匠とご結婚され一門を支える女将さんとしてご活躍をしてきました。それでも心の中には「東京大空襲」で生命を奪われた数多くの方々への慰霊の思が途絶えるとはありませんでした。

そして2005年意を決してまさに私費を投じて東京上野に東京大空襲の慰霊碑「哀しみの東京大空襲」「時忘れじの塔」を建立、毎年3月9日に慰霊の集いを行ってきたのでした。
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私は、東京大空襲をテーマに撮った海老名さん原作のアニメ「明日元気になーれ」の全国配給を担当したことがきっかけで海老名さんとお会いして、キャンペーンでご一緒に全国を回り、その中で彼女の平和への熱い願いに胸を熱くしていました。
それ以降私も毎年3月9日の慰霊の集いに参加して参りました。集いには毎年大勢の方々がご参加され、いつまでも続く平和を願って手を合わせていました。

そして本年3月9日、巡り来る70年目の集いは上野の山で開催されます。
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# by cinema-tohoku | 2015-03-09 10:20 | その他 | Comments(0)

間もなくこの世に生まれてくる「じんじん」公開に向けた私たちの論議はその回を重ねてゆきました。

通常の劇場のみでの公開によるならば、結果的には映画館のない地方を切り捨てることになってしまう…。そして、私たちが心を込めて贈ろうとするこの作品はシネコンにかけてそのことだけで多くの観客に観ていただくことにはならないタイプの作品だろう…。

幾度かの議論の上で私たちは新たな日本映画の未来も願ってこんなしくみでこの作品をお届けしようと決意したのでした。

この作品が語るべきテーマ「地域社会と家族の再生」を前面にたて、丁寧に時間もかけて足も運び、この作品の心を語ってゆくならきっと全国の多くの方々がご賛同の手をつないでいただけることを信じて、私たちはこの作品の公開をご賛同の住民の方々と手をつないだ映画館によらない地域運動として歩みだすことを決意し、あえて「スローシネマ」と名を冠し、201211月北海道剣淵町からそのスタートを切ったのでした。


あの日から3年を数えることとなりました。

私たちが願った「じんじん」公開の夢は確実に人の手から手へと受け継がれ、人から人へとへと語られ、大きな大きな上映の輪となって育っていったのでした…。






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# by cinema-tohoku | 2015-03-06 11:05 | 映画 | Comments(0)

そんな暗い低迷の時代を大きく変えるきっかけとなったのが「シネコン」の登場でした。

1993年、神奈川県海老名市に第一号がオープンした「シネコン」は、たちまちのうちに全国に大きく拡がってゆきました。減少を続けていた映画人口が一転して増加に転じました。そして、スクリーン数もその数を増やして行きました。

こう語りますと日本映画はまるで万々歳のようですが、残念なことに光があれば影もあったのでした。

「シネコン」は効率性と収益が第一義的に求められる装置なのかも知れません。その立地にあたっては人口集中の大都市圏が選ばれてゆきました。又、シネコンの進出によってそれまであった地方の既存の映画館は、その競争に勝てずに閉館を余儀なくされてゆきました。その結果、映画館は大都市圏のみに偏在するものとなってしまったのでした。今や、日本の約9割の市町村は映画館がゼロ地帯と化し、映画の世界では都市と地方との格差は決定的なものとなってその分日本映画界の大きなひずみとして横たわることとなったのでした。

又、シネコンの登場によって作品の質にも大きな変化が生まれてゆきました。効率と収益を求めるシネコンにとっては、都市から地方へと順次公開を拡げてゆくかつての映画の公開のしくみはとうてい採用されないものとなったのでした。

「全国一斉公開」…この新たなしくみによって、巨大な宣伝費を投下したひと握りの作品が多くのスクリーンを独占することとなり、数億、数十億の宣伝費を準備できない作品はたちまちのうちに打ち捨てられてしまう道をたどることになってしまったのでした。

本来映画は利生むべき「商品」であると同時に「文化」としての側面も持ち合わせたものなのだと思います。人の心を育み、地域社会を元気にさせる…、そんな映画の持っている「文化」としての側面に目をやった時、それは多様なものであるべきだし、丁寧に時間もかけながら観客と一緒になって育てるものでもあると思うのですが、「シネコン」の登場は、その後の日本映画界にこんなひずみも生むことになってしまった様でした。


・・・「スローシネマ③へ続く」

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# by cinema-tohoku | 2015-02-27 09:58 | 映画 | Comments(0)