カテゴリ:映画( 58 )

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 親による虐待や子殺し、いじめに起因する子どもたちの自殺、独居老人の孤独死、声高に自己責任を叫びながら語られる一方的中傷...、いつの間に私たちの国はこんな姿になってしまったのでしょうか。

 こんな閉塞感でいっぱいになってしまった様な現代社会に、まるで宝物の様な一本の映画が生まれました。
 「きみはいい子」原作者中脇初枝さんの世界を、呉監督が見事な演出力で映像化した作品です。
 この物語は、架空のある町に生活する何人かの人々の心の揺れ動きを織り成しながら語られてゆきます。
 地域社会の中に孤立し、心ならずも娘に手をあげてしまう母親...子どもたちの背負っている家庭の影に気づき、その子ともう一度しっかりと向かい合おうと決意する新任の教師...障害を持った子どもをかかえ、押しつぶされそうになりながらも必死に生きようとする母親...そして、たった一人で生活しながら地域をやさしく見つめる老人...。
 地域社会の崩壊が語られ、今や地域社会の基礎単位であるべき家族さえ揺らぎ始め、そこに起因する悲しい事件が毎日の様に報じられる様になってしまった現代社会に、この作品は、それでもまだ大丈夫...丁寧に人と人との心をつないでゆけば、きっと一すじの光が差し込む時がやって来ることを、やさしい言葉で私たちに語ってくれたのでした。
 高知県四万十市ご出身の原作者中脇初枝さんは、こんな言葉も語って下さいました。

“わたしは四万十川のほとりで近所の人たちから「べっぴんさん」と呼ばれながら大人になりました。
わたしがべっぴんだったからではありません。
あの時代、あの川べりの町に暮らしていた女の子たちは、みんなそう呼ばれ、近所の人たちに見守られていました。
その時はそれが当たり前のことだと思っていましたが、今になって、なんて幸せな子ども時代だったのだろうと気づきました。”

 なんと心やさしい地域社会に子どもたちが抱かれ、確信を持ってその未来に向けて育っていた時代だったのでしょうか。
今一度立ち止まって、地域社会と子どもたちの未来を語るきっかけになれば...。
「きみはいい子」は私たちの手によってもお伝えしてゆくことになりました。


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by cinema-tohoku | 2015-09-17 16:24 | 映画 | Comments(0)

 3回続きもののブログになりました。

 前号でお知らせしていました「「ソ満国境 15歳の夏」の二本松市・浪江町会合同での試写会が二本市駅前の会場で開かれたのは、あの焼けつく様な太陽もすっかりその姿を消し、一転して秋を思わせる冷たい霧雨が降りしきる日のことでした。

 この日は、ご多忙のスケジュールを割いてご参加いただいた両首長様をはじめ、50名程の関係住民の方々がお集まりになり、両首長様のごあいさつで試写会は開会となりました。

 又この試写には、撮影の時お世話になった御礼と、完成のご報告もかねて、この作品を手がけた松島監督も足を運んで下さり、引き続いてのごあいさつに立っていただきました。

 私は、松島監督とは既に何度もお会いしておりましたし、福井ではご一緒に盃を交わしたこともございました。

 仕事がら、これまでも何人もの監督と仕事をして参りましたが、松島監督はその中でも際立って誠実な、そして決して声を荒げない、丁寧なかつ冷静なお話をなさる方だと思っていました。

 何とその松島監督が、ごあいさつの途中で思いがこみ上げ、胸が熱くなり、言葉につまってしまったのでした。

 企画から数えるなら5年におよぶ長い長い製作の旅...その間には数々の絶望もありながら、あの日の大惨禍が結果的には完成のはずみとなったのでした。

 「戦争」そして「大惨禍」をも乗り越えて「人の世の幸せ」を語ろうとした長い旅の末に完成した作品を持って被災地を訪れ、必死の思いで日々の生命をつないでいる浪江町民の方々を前にした時、監督の胸には数々の思いが去来したことでしょう。

 上映終了後、感動に頬を染めながら交々に熱い感動を語る被災地の住民の方々のお声に、やっと笑みのこぼれた松島監督でした。

 あの大惨禍から間もなく5年...あきらめずに語り続けなければ...そんな思いをずっしりと胸の底に蓄えた...そんな私にとっても大切な一日でありました。

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試写会でごあいさつをされる松島監督

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試写会終了後




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by cinema-tohoku | 2015-08-28 16:43 | 映画 | Comments(0)

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福島県二本松市の仮設住宅


 「ソ満国境 15歳の夏」は、原発事故で故郷浪江町を追われ、福島県二本松市の仮設に生活をする現代の15歳の中学生からドラマが始まります。

 中学の放送部に所属する彼らのもとに、中国から招待が届きます。

 中国に来て、70年前に展開された日本の15歳の少年たちの事実を一本の作品に作りあげて欲しいとの…。

彼らは中国に渡り、その事実に初めて触れ、大きな衝撃も受けながらもその中で、新たに自らの未来に向けて生きる力を手にして二本松の仮設に帰って来ます。

 ドラマは、こんな展開で進んで行くのです。

 この映画製作の企画が始まり、松島さんのもとに監督の依頼が来た時から、松島監督の心の中に常にわだかまっていた映画製作上の課題がありました。

 敗戦から70年目を数え、全人口の中に戦後世代が圧倒的な比率を占めることとなった現代、ただひたすらに70年前の出来事のみを描いて果たして現代の方々の胸に響く作品となるのだろうか…。

 より今日的な視点をこの作品に盛り込むことは出来ないのか…。

 そんな思いが松島監督の胸に去来していたのでした。

 そんな折に発生したのが、2011311日の大惨禍でした。

 監督は、突き動かされる思いで被災地福島県を訪れ、いつか通ううちに浪江町を追われ二本松市の仮設住宅で暮らす方々と繋がり始めました。

 こんな折、まるで新たな創作イメージが天から降って来たかの如く監督の胸に届いたのでした。

あの時の「満蒙開拓」はまさに国策でありました。

「満州国」は新天地…こんな宣伝にあおられ数多くの日本人が海を渡りました。

 そして89日、圧倒的なソ連軍が国境を破った時、そこには本来国民を守るべき軍隊は既に後方に撤退し、ソ連軍の前にはまさに裸同然の民間人のみが残されていたのでした。

 あの時国は、国民を捨てたのでした。

 「原発推進政策」…これもまさに国策でありました。

 そして18000浪江町民は今故郷を追われ、全国46都道府県に散り散りになりながら、未来の見えない生活を強いられているのです。

「棄民」…まさにこの言葉でこの2つの物語は監督の胸の中で一つのイメージにつながることになったのでした。

 そして、二本松市の仮設にお住まいの浪江町民、又、二本松市の全面的なご支援もいただきながらこの作品は完成を迎えたのでした。

「国」とは本来国民を守るべきもの…、しかしながらこの70年の日本の歴史の中に繰り返された2つの悲劇を見つめた時、「国」とは?…この作品はこんな問いも観る者に語りかける作品ともなりました。

 日本の未来を巡って重大な議論が交わされている今日、一人でも多くの方々にこの作品をお届けしたいものです。

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除染作業のシーン



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by cinema-tohoku | 2015-08-05 11:19 | 映画 | Comments(0)

 もう一つ、昔観た映画の思い出を…。

 以前「春…そして旅立ち」にも書きましたが、私は1971年大学卒業の時、大きな決断をして映画の道に自らを導いて参りました。

 そこにはまさに、青春なるが故の感動があり、悩みがあり、そして挫折もありました。

 そして、そんな時代を共有した友もいたのでした。

 私は、1967年東京の大学に入学しました。

 幸い、父親の会社の子弟寮が東京にあり、入学と同時に私はこの寮の寮生となったのでした。

 そしてそこには、同じ時代を生きる、同じ釜の飯を食った仲間たちもいたのでした。

ギターが得意で、一緒にいると不思議に人の心を安らかにさせたI、哲学科に籍を置き、常に時代に迷いながらも最後は天職たる教師に自らの道を拓いたF、そして一旦は大学を卒業しながらも映画への道を志して、東京の専門学校に入学したKさん…。

私たちは夜が明けるまで語り合い、登山をし、そしてそこにはいくつかの恋もありました。

 そんな私たちはいつの間にか、Kさんを中心に地域に向けた映画サークルをつくるに至っていたのでした。

 私たちは16mm映写機を担いで数々の映画の上映会を行い、映画を通して人と巡り合い、そしてこれまで知ることのなかった数々の世界も学んでゆきました。

 そんな活動の中で巡りあった映画の一つに「若者たち」(1967年俳優座製作)がありました。

 親と死に別れ、都会の片隅で肩を寄せ合って生きる5人の兄弟…。

 そこには時代と向かい合う若者たちの喜びが、葛藤が、そして挫折がありました。

 この作品の上映を私たちは、無謀にも松戸市民会館大ホール(1000席)を会場に取り組み、会場を満席に埋める大成功をおさめたのでした。

 そして、この日スクリーンを見つめる私の目には涙が次から次へとあふれたのでした。

 若者たちが押しつぶされそうになりながらも精一杯時代へと向かい合い、そこから自らの未来を切り拓こうとする姿に、私の胸は熱い感動でいっぱいになったのでした。

 ちょうど卒業の年を迎え、自らの社会での道を悩みながらも探っていた私にとって、この感動は自らの人生を決める大きな契機ともなったのでした。

 「君の行く道は果てしなく遠い、だのに何故歯をくいしばり…」

 人の一生に影響を与える…、そんな作品をお届けしてゆきたいものです。

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映画「若者たち」(1967年俳優座製作)



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by cinema-tohoku | 2015-07-21 15:07 | 映画 | Comments(0)


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 これまで私は一体何本の映画を観て来たのでしょうか。

 それを今計るすべはありませんが、ここに至るまで数々の映画を通して自らの心を育んできたことを実感しています。

 そんな数々の作品の中で一番私の心に残っている作品をあえてあげるなら、それは「二十四の瞳」なのです。

 小学生の時、先生が学年全員を引率して街の映画館で観せてくれた時の感動を今でもありありと思い出すことが出来ます。

 子どもたちのいたずらで足を怪我し、学校を休んでいた大石先生に会いたい一心で、遠い道のりを大石先生の家に泣きながら向かう子どもたちの姿に涙…、そしてラストシーン、戦争で失明した磯吉が小学生の頃の記念写真を指でたどる姿に又又涙…。

 とにかく数々の感動で胸が熱く満たされたことを、今でもありありと思い出します。

 しかしながら、改めてこの作品の概要を振り返ってびっくりさせられました。

 この作品の公開年はなんと1954年、おそらくこの年に私が観たのだとするなら私たちは当時小学一年生、又この作品はなんと156分におよぶ長尺の作品、そして何より、木下惠介監督渾身の思いを込めた「平和」へのメッセージが込められた作品なのでした。

 あの頃の先生たちはきっと、本当に素晴らしい作品は、たとえ学齢が低くとも子どもたちの胸に届くことを信じて、確信を持って私たちと向かい合っていましたし、又そんな先生たちの思いを受け止め、いつまでも続く平和への願いをしっかりと胸に刻み付けた私たちでもありました。

 何と大らかな、そして信頼に満ちあふれたあの時代の中に、心を成長させていた私たちでありました。

 このブログを書いている今日は、715日です。

 先ほど国会の委員会で安保関連法案の強行採決が行われた…との報に接して暗澹たる思いにさせられています。

 何と憲法違反の声さえ無視して、日本を再度戦争の出来る国に変えようとする現政権のありようには強い危惧の念を抱かざるを得ません。

戦後の民主主義の時代に育ち、数々の映画を通して「平和の尊さ」を心に刻んで来たのですから…。

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by cinema-tohoku | 2015-07-17 11:21 | 映画 | Comments(0)

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 「じんじん・2」製作の夢が動き出しました。

 「じんじん」はその完成から3年を迎えましたが、上映は止まるところを知らず全国に大きく輪を拡げていました。

 人口はたった3500人…、その始めはほんとうに小さな剣淵町から発信された、これも始めは小さな願いがここまで大きく育つことを誰が想像したでしょうか。

 閉塞感でいっぱいになってしまった様な現代社会…、それでもそこを乗り越えて新たな未来を拓く一つのカギが「地域社会」と「家族」の再生にあることに気付いた人々は、「じんじん」の地域上映の実現にその手を熱く重ねて下さいました。

 そして、そんな多くの方々の願いは、ここに至るまでにその上映の輪を、全国500ヶ所、20万人観客にまで拡げたのでした。

 この一人一人は、莫大な宣伝費によって“集められた観客”とは本質的に異なる、まさにより良き国の未来を願う“熱いお声”でもあったのでした。

 そして、そんな上映地の一つに神奈川県秦野市がありました。

 秦野市は「じんじん」の山田監督がお住まいの町、早い時期から上映実現に向けた動きがあり、私も市長さんとご面会、上映は市長さんのご賛同も得て成功に向けてすべり出したのでした。

 そして巡った試写会の日…ご覧いただいた方々からは交々に感動のお声が語られ、更にはこんな素晴らしい映画を秦野市で撮影してもらいたい…、こんなお声がごく自然に参加者から語られたのでした。

 そしてあれから2年…、秦野市民は夢を現実のものとするため、一歩一歩その夢を育んでいたのでした。

 こんな市民の夢を受け止めた市長さんが6月の定例記者会見の折に、これを発表、市としても全面的に応援をする…との動きとなって、「じんじん・2」製作の夢はその実現に向けてスタートを切ることになったのでした。

 剣淵町民が心を込めて発信した地域社会と家族再生の願いは、秦野市民にそのバトンが手渡されることになった様です。

 こんな、まさに“夢の様なお話し”は、来年「じんじん・2」となってその実を結ぶことになりそうです。

 来年又、スクリーンで銀三郎と再会できるかも…。

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by cinema-tohoku | 2015-07-03 13:26 | 映画 | Comments(0)

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映画「ソ満国境 15歳の夏」より


 611日、いつまでも続く平和を願って「ソ満国境 15歳の夏」の東北初の試写会が仙台市で行われ、上映運動スタートへの第一歩が印されました。

仙台市では、70年代から80年代にかけて、「親子映画の会」が、子どもたちの健やかな未来を願って大活躍をしていました。

運動に賛同した親と教師とで構成されたこの会は、ていねいに年2回の上映会を重ね、その度毎に6,000名~7,000名、時によっては10,000名を数える親と子に数々の感動を届けて来ました。

「鯉のいる村」「教室205号」「セロ弾きのゴーシュ」…振り返れば数多くの名作が親子映画の会の手を通して子どもたちに伝えられていたのでした。

 又、これらの親子映画の定例上映会とは別に、数々の平和を語る映画も、親子映画の会も参加した上映実行委員会の手で仙台の親と子の胸に感動を刻んでいました。

「はだしのゲン」は、仙台の子どもたちに原爆の実相を伝えましたし、「ガラスのうさぎ」が語る平和への願いは、市民の手から手に伝えられ、14,000名を超える大ヒット上映ともなったのでした。

しかしながら、その後日本映画大手各社がその営業戦略の中核に子どもをターゲットにした作品を設定し、大宣伝によるアニメが一大市場となる中で、親子映画の会はその運動が困難となり、ほどなくその活動を停止、又労働運動の再編は日本の労働運動を困難な時代へと突き落とし、その結果これらの上映運動は極めて困難な状況となって年を数えていました。

 そして巡り来た戦後70年の年、そして日本の将来を巡って戦争と平和が論じられている今、かつて仙台の子どもたちに映画を通して、心の成長や平和を語って来た方々の中から「ソ満国境 15歳の夏」の上映実現のお声があがって来たのは必然の結果だったのかも知れません。

まずは何人かに声をかけて映画を観てみよう…こんな思いで開かれた試写会には、40名を超える方々が思いを込めてご参加して下さいました。

上映終了後、丸くなって行われた「感想を語る会」では、交々に感動のお声が語られ、中にはご感想を語りながら思わず言葉につまる方も…。

全員一致で上映運動スタートを決め、東北第一号の上映は仙台からその名乗りをあげることになったのでした。

子どもたちの未来を巡って、まさに信じ難い事件が毎日のように報じられるようになってしまった現代社会…。

その底流には、日本社会が支え合いのそれから、差別と自己責任を語る社会に変容し、更には人の生命をいつくしむ心から、戦争への道を再びひらこうとする心が大きく展開し始めたことと無縁ではないと思われるのです。

そんな今、かつて映画を通して子どもたちの心を育んだこれらの方々の上映への決意は、私のこの映画の全国上映への確信ともなって胸に伝わって来たのでした。

“人の世の幸せを…”そして“いつまでも続く平和を…”「ソ満国境 15歳の夏」は、こんな声を今、東北の地に語り始めた様です。

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試写会後の「感想を語る会」



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by cinema-tohoku | 2015-06-17 09:35 | 映画 | Comments(0)

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「アテルイ」...懐かしい題名の朗読劇のシナリオが私のもとに届きました。

ことの始まりは17年前にさかのぼります。

 意を決して長年お世話になった共同映画から独立し、東北の地にシネマとうほくを立ち上げた時、私の胸には一本の映画製作の決意がありました。

 「アテルイ」...今から約1200年前、古代東北のエミシの勇者をテーマに長編アニメーションを製作し、未来に向けて生きようとする東北の子どもたちに正しい歴史の手渡しと、併せて故郷への誇りを語ろうとした決意でした。

 かつて東北は幾多の不当な「差別」にさらされてきました。

 暗く・貧しく・劣っている...東北の地はこんな言葉に彩られ、それ故の悲しい過去も数多く経験してきました。

 東北岩手に生を受けた私もこの例外ではありませんでした。

 しかしながら、共同映画に自らの生きる道を求め、その仕事を通して多くの方々とお会いする中で、まさに衝撃的な事実との出会いは私の胸を大きく動かしたのでした。

 今から約1200年前、東北の地は遠く縄文の歴史と文化を受け継ぎ、自然と心を通わせながら慎ましやかにその生を営んでいました。

 その頃、大陸から渡来してきた民たちは、近畿地方に「ヤマト」を打ち立て、その版図を全国に向けて拡げつつありました。

 そして、最後まで「ヤマト」の拡大になびかなかったのが、深い縄文の森に守られた東北の地だったのでした。

 「ヤマト」は東北の民を「エミシ」と蔑み、必ずやヤマトの王のもとにひれ伏させるのだ...と語りながら侵略の圧倒的な大軍を送って来ました。

 これに対し、かかんに立ち上がり、故郷の生活と誇りを守る戦いに立ち上がった勇者達がいました。

 そして、その闘いの先頭に立ったのが若き勇者アテルイであったのでした。

 789年、後に巣伏の戦いと呼ばれた最初の軍事的衝突では、押し寄せたヤマトの大軍を迎え撃ち、少数ながら、エミシ軍はこれを完膚なきまでに打ち破り都に追い返したのでした。

 しかしながら、圧倒的な物量で攻め寄せるヤマトとの戦いは長期にわたり、疲弊しきった東北の民の根絶やしを避けるため、アテルイは自ら投降し、京の都にひきたてられて行ったのでした。

 その後、統一日本の一部となった東北各地には、「鬼伝説」が語られるようになりました。

 悪い鬼が人々を苦しめていた、都から勇者がやってきてこの鬼を懲らしめて民を救った...。

 この中に語られる「鬼」こそ、その真の姿は東北の誇りをかけて勇敢に立ち上がった勇者たちであり、これを退治したとされるのが、ヤマト侵攻軍の先頭に立った坂上田村麿その人だったのでした。

 アテルイ死後の東北の歴史は白を黒に置き変えて語られ、その後の東北の悲しい歴史の原点はまさにここにあったことを知った私の胸は大きく揺さぶられたのでした。

 いつの日にか、「アテルイ」をテーマに映画をつくり、東北の誇り高い歴史をそのままの姿で東北の子どもたちに伝えたい...。

 そんな私の願いは、幸い岩手県知事(当時の増田寛也知事)はじめ多くの方々のご賛同となり、映画は2001年完成を迎えたのでした。

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 そしてその作品の中で、素晴らしいプロの技でアテルイの盟友モレ役をつとめていただいたのが、声優平野正人さん(岩手県八幡平市出身)であったのでした。

 久しぶりに平野さんからお電話があったのは、年も明けて間もない頃であったと記憶しています。

 現在、大阪芸術大学声優科で教鞭を取って声優を目指す若者と向かい合っている平野さんは、明春、大学を旅立つ卒業生の卒業製作として私たちのつくった「アテルイ」のシナリオをもとに朗読劇を製作したい...。こんな熱い思いを私に語って下さったのでした。

 このお申し出を喜んでお受けし、製作されたシナリオが私の元に届いたのでした。

 今から約1200年前、故郷を守るため立ち上がった東北の勇者たちが明年 3月大阪の地によみがえるのです。

 アテルイ斬殺の地、枚方市をそばにした大阪市の地に...。


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by cinema-tohoku | 2015-06-01 11:45 | 映画 | Comments(0)

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 以前のブログ「満開の桜」で、この度全国配給を担当することになった「ソ満国境 15歳の夏」に描かれた新京第一中の少年達の史実を「満蒙開拓青少年義勇軍」と書きましたが、この表現は間違っていました。

 「満蒙開拓青少年義勇軍」は日本国内から集められた少年達を旧満州国農村部に生活させ、期限を定めずに農業に従事させながら一旦事がおこれば銃をもってこれにあたる、半ば兵士(兵士と呼ぶにはあまりに幼い彼らですが)でもありました。

 しかしながらこの度の映画に描かれた新京第一中学の少年達は、関東軍のための食料増産にあたるべく、一定の期間を限って「報国農場」の援農にあたったものでした。

 この限りでは「青少年義勇軍」とは明らかに区別されるものでございました。

 私の至らなさでありましたことをお詫び申し上げます。


 それでも、この報国農場の援農のその後ろにあった実相を見つめた時、改めて怒りを覚えるのです。

 原作者田原さんを始めとした新京第一中の少年達がソ満国境の報国農場の援農にはいったのはまさに敗戦間近の時でございました。

 この頃には、「無敵」と語られた関東軍は、その大半の兵を南方戦線にさかれ、その実体はまさにスカスカでした。

 そして、近々国境を破る可能性の大きなソ連軍に備えるため、戦線を大きく後退させる準備も着々と進めていたのでした。

 しかし、その作戦をソ連軍にさとらせないための策の一つとして、新京第一中の少年達をソ満国境に配置したのが実体でした。

 民間人が居るなら、それを“守る”ために関東軍もいるはずだと...。

 こんな策略のために少年達は国境に置かれたのでした。

 89日、戦車の車列を連ねながら、圧倒的なソ連軍が国境を破った時、そこには既に日本軍の姿はなく、徒手空拳で取り残された少年達だけがそれに向かいあうことになったのでした。

 まさに「軍隊は国民を守るものではない...」この実相を見事に語った惨劇が展開されることになったのでした。

 今また、戦争と平和を巡る論議が活発に交わされるなかで公開されるこの作品を通して、「戦争」そして「軍隊」の実相も語ってみたいと心から願うのです...。


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by cinema-tohoku | 2015-05-27 14:08 | 映画 | Comments(0)

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 映画「ソ満国境―15歳の夏」に描かれた一シーンが印象的でした。

 新京第一中学の生徒たちは、ソ連軍の手を離れ、徒歩で広大な中国大陸を帰国への道をたどり始めました。

 しかし、その道は遠く食料も水さえもその底をつき、必死の思いでたどり着いたのが「石頭村」でした。

 彼らは村人に救いの手を求めましたが「侵略者の子ども」と語る村人たちの視線は冷たく明らかな拒絶の意を語っていました。

 しかしながら、そこに登場した村長は彼らを取り巻く村民にこんな言葉を語ったのでした。

 “日本が我が国に侵略をしたことは明らかだが、それは国と国とがやったことだ。まだ子どもである彼らには何の罪もない。一夜だけ休ませてやって自国に返してやろうではないか・・・。”

 その言葉は幸いにも村民の共感となり、子どもたちは村人の家々に分宿し、一夜の休養と食事を与えられ、翌日帰国への道をたどったのでした。

 2007年中国の温家宝首相が、「氷をとかす旅」と語りながら来日、その折に国会で演説をされました。

 温家宝首相は、その演説の中にこの「石頭村の一夜」のエピソードを取り上げ、過去の不幸な時代を乗り越えた両国の友好親善の回復への願いを語ったのでした。

 今又、日中両国は困難な状況にある中で公開されるこの作品の上映を通して、歴史的にも切り離すことの出来ない日中両国の真の友好親善関係の回復を心から願わずにはいられません。

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映画「ソ満国境ー15歳の夏」より



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by cinema-tohoku | 2015-04-20 11:10 | 映画 | Comments(0)