夢の実現
私の胸の中に長年にわたって暖め続けて来た企画が、急速にその実現に向けて動き出しました。
仮題ですが「疎開保育園物語」と名付けた作品です。
時は1944年にさかのぼります。
東京品川区戸越には、子どもたちの命を育む小さな保育所がありました。
この頃には、戦争もいよいよ敗色が日増しに濃くなり、東京への空襲はもはや避けられないところにまで来ていました。
そんな状況を背景に、幾度にもわたった議論の末に、戸越保育所は大きな決断を下したのでした。
子どもたちの命を守るため、日本で初めての保育所の地方への疎開という決断を・・・。
しかしながら、下は3才からのまだ学齢にはほど遠い子どもたち・・・、保育所は保護者たちに何度も説明会を行い、この決断は実現に向けて動き出したのでした。
そして1944年11月、53名の子どもたちと、11人の年若き保母たちとの疎開保育所は、埼玉県平野村の荒れ寺で始まりました。
いつ果てるとも知れない疎開先での生活の日々は、子どもたちにとっても、そして24時間保育を強いられた保母たちにとっても過酷な毎日でした。
それでも子どもたちは保母を信頼し、つらくともその生活の中に楽しい思い出も刻みながら育っていました。
そして、1945年3月10日、東京大空襲の日がやって来たのでした。
遠くに望む東京の空が赤く染まり、不安な思いで一夜を過ごした保育所は、翌日東京に一人の保母を派遣しました。
茫然としたまま帰って来た彼女の語る報告に、保母たちは言葉もありませんでした。
一夜にして沢山の方々の命が奪われ、子どもたちの家族にもその被害はおよんでいたのでした。
なかでもあの年、やっと3歳を迎えていた健ちゃんは、両親と祖父、幼い妹までもが命を奪われ、一夜にして“孤児”になってしまっていたのでした。
健ちゃんにその悲しい事実を告げる保母の胸は悲しみにつぶれ、必死にその話を受け止める健ちゃんの目には大粒の涙が光っていました。
それでも戦火から子どもたちの命を守ろうと決意した保母たちは、数々の困難を乗り越えて、1945年8月、一人の子どもの命も失わずに戦争の終結を迎えたのでした。
日本の歴史の中にほとんど埋もれていたこの事実の映画化企画が初めてあがったのは1984年のことでした。
映画化を前提としての原作も出版され、準備を進めていたのでしたが、実現出来ずに終わった要因は、学齢前の子どもたちに演技をつけられないのでは・・・との危惧からでした。
それでもこの企画は、私の胸の中に長い年月を経て住み続けていたのでした。
世に出ることになったきっかけは、日本映画界に数々の足跡を残してきたプロデューサー李鳳宇(リボンウ)さんとの出会いからでした。
李さんとの会話の折にこの企画の話をしたところ、彼は大感激!
原作を読んだ上で、彼の会社に計り、幸い製作は決定、映画化への道は急速に動き出したのでした。
いつまでも続く平和と、子どもたちの輝く未来を願って・・・。
長年の私の夢は、明年春一本の映画となってこの世に生を授かりそうです。
疎開保育園の保母と子ども